エッセイ 『指輪』

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  薬指に指輪をしなくなってから、いったい何年になるだろうか。
 離婚したわけではない。幸か不幸か、結婚生活は、延々と今日も続いている。
 惰性なのよね、というほどにあきらめの日々でもない。かといって、最早昔には戻れないことを、誰よりもよく私自身が知っている。
 だが、戻れない、というのは、いささかセンチメンタルに流れた物言いだ。
 戻りたいけど、戻れない、のではない。
 もう、戻りたいと思わない、あるいは、戻ろうとも思わない。あるいはさらに、終わったところに戻る気はない、と言い切ったほうが、おそらく私の心象を的確ににあらわしているだろう。
 こんな風に気持ちが変わるとはね・・・
 まっすぐな若さの中に生きていた時代には想像すらできなかったことだ。
 
 そもそも、あの指輪は、いったい何のために嵌めるのだろう。

 恋愛モード全開のときにはあまりにも自明の問いであったが、今になると、指輪を嵌めて暮らすことの意味がまったく分からなくなっている。
 薬指に光る指輪は既婚者の証。いつでもどこでもパートナーとのつながりを確認できる大事な大事な絆のしるし。
 
 だが、それは本当だろうか?

 世の中、マリッジリングを嵌めている人間が、すべからく、パートナーと深い絆で結ばれているわけでもなかろう。
 女性はともかく、かなり多くの男性は、マリッジリングを嵌めるようになってから、少なくとも一度や二度は、リングの存在に大いなる束縛を覚えたことがあるはずだ。
 だが、外すといえば、女房がうるさい。まあ、普段は、別に邪魔にもならんし。それに、最近は、既婚者であることは、むしろひとつのステータスでもあるしね。

 ロースクールの教室にも、指輪組みが何人かいる。かく言う私も、指輪をしていないだけで、既婚者であることには変わりはない。
 それでも、ロースクールの教室で、これみよがしに指輪を嵌めて、「私は既婚者よ」と宣伝して(いるわけではないのだが)歩く気には、まったくなれない。
 それは、おそらく、長い間、私が「私」としてではなく「○○さんの『奥さん』」として暮らしてきたからであり、ようやく私が「私」として存在できる場所を見つけたというのに、「○○さんの『奥さん』」の証である指輪なんぞ、嵌めたくないということなのだろう。

 結婚すると女性が苗字を変えるのが当然であると思う世の中、内助の功なる言葉があいも変わらず生き続けている世の中。
 そんな世の中の見えない圧力の息苦しさを、きっと男性諸氏は感じることがないままに生きておられるのであろう。
 それはある意味羨ましくもあり、ある意味お気の毒でもある。

 なぜなら、痛みや不合理を知ることで、人は心の世界を広げることができるし、心の世界が広がると、それまで観えなかった世界が観えるようになるからだ。

 私には観えている、あのことこのこと、それがこちらの男性方には観えていないのだなあ、と感じることは、ちょっとばかり楽しい経験ではある。
 年重ねることも、まんざら悪くない。


ツアイステッサー75mmf3.5 T―MAX100

  
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by law_school2006 | 2006-08-13 01:49
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