エッセイ 『人生』

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  昨年の春、パソコンを替えた。データの移動をしていないので、今手元で簡単に読めるメールは、だから昨年の春からのものになる。
 メールソフトで検索をかけ、先ほどより、一昨日急逝した友のメールを読み続けている。仲間内の文芸サークルのML(メーリングリスト)に彼女が投稿したメールだ。
 
 忙しい仕事の日々、そこでの発見と思索、その合間を縫っての精力的な趣味の活動。
 山歩き、温泉巡り、美術館に、読書、オフ会のアレンジ。
 そして何より、これらのことがらを、様々な感慨とともに、こまめにMLに報告する、彼女そのものであるところの、数多くの投稿。
 それらを順を追って読み進めるうちに、彼女がどこか生き急いでいたようにも思えてきて、運命の磁場に引き寄せられるようにして歩く彼女の姿が浮かび、お願い、止まって!と叫びたい気持ちに駆られた。
 読み進めるのが次第につらくなってきたとき、ふいにこんな文章にぶつかった。

 『私はLさんの文章を読むのが好きです。Lさんには「書くこと」のトライアルをたくさんして欲しいと思っているし、そのことで頭角を現して欲しい、世に出て欲しいなと思っています。Lさんだからいろいろ言ってしまいました。ごめんなさいと有難うをもう一度言って眠ろうと思います。おやすみなさい。』

 Lさんとは私のこと。
 私が青春の総括として書き、文芸サークルMLに投稿した文章に対する、彼女の感想の言葉だった。
 胸を突かれる想いがした。彼女自身がいまだ昇華しきれずに持ち続けていた想いを、私は彼女の文章の言外にひしひしと感じ続けていたし、だからこそ、彼女は、ある部分似たような心象風景を持ちつつ書く私の文章に、ことのほか感じることが多かったのだ。
 
 彼女には、言わない、あるいは、いまだ言えない(言語化できない)ある種の想いがあり、私にも、言わない、あるいは、いまだ言うべき時期にない物語があった。
 私より少しだけ人生の先を歩いていた彼女は、子どもの手が離れることの自由を語り、人生の後半戦の生き方を語った。
 
 長く家庭にいた私が、法律の勉強を始めようと思ったのも、彼女をはじめとして、専門的知識をもって仕事をする多くの先輩、同輩のように、わたしも仕事をしてみたいと思ったからだ。
 口で言うほどたやすくはない「両立」の現実。仕事はただ「続けてさえいれば満足」できるものでもなく、高度に専門的な職種であればあるほど、育児にも時間を割く人生を選択した者は、専門性をより深く追求しえた人生への未練のようなものを抱かざるを得ないのかもしれぬ・・・
 
 彼女の文章を読んでいると、彼女が抱えたジレンマや葛藤が、そのまま私には伝わってきた。
 なるほど、そうだとしたら、育児にだけ時間を割いてきた者が、これからは仕事にだけ時間を割くことで、人生の天秤をチャラにできるのかもしれない。
 遅まきのスタートであっても、多くを望まず、到達点を見切った上で目標に向かって進んでいけば、仕事における自己実現と充足を得ることは、もしかしたら可能なのかもしれない。
  それは私自身の夢の実現であり、きっと多くの女性たちの夢の実現につながることに違いない。
 そうやって自分自身を励ましつつ、だが、現実は、「とんでもないこと始めちゃったなあ」と感じることも多い法律の勉強を始めて、まもなく三年。
 夢の実現にはまだ遠いが、それでも、夢のカケラ程度の現実性は見え始めるようになった。 
 ロースクールを卒業し、試験を受け、修習を終え、実務につけるのは早くてあと三年。
 それでも気力体力が、なんとかもつであろうそれからの10年間を仕事に全力投球できれば、ひとつくらいは世のためになる仕事をこの世に残せるやもしれぬ。
 そしてその後はペースを落とし、細く長く死ぬまで仕事を続けていければ、ひとつの人生モデルを示すことだって可能かもしれない。
 
 彼女の突然の訃報は、そんな皮算用を弾いていた私に、人生の現実を厳しくつきつけてきた。
 来る日も来る日も、法律の勉強に明け暮れる日々を選択した私の目には、子育ての束縛から自由になり、人生の収穫期を迎えつつある彼女の多彩な活動の日々は、きらきらと輝くものに見えた。
 そして、その輝きは、こうして、彼女がMLに残したたくさんの文章を一気に読み返してみると、紛れもなく、彼女の人生の輝きそのものに見える。
 
 だが、その輝きが、今は、哀しい。美しく煌いているからこそ、余計、哀しい。


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by law_school2006 | 2006-08-15 01:19
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