エッセイ 『希望』

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 ここ数日、まるで勉強する気がおこらない。
 これではまずいのだが、おこらないものはおこらないので、どうしようもない。

 法律の勉強は、下りエスカレーターを上ることに似ている、と言った人がいるが、その心は、普通の速度で歩き続けて、ようやく現状維持。
 ちょっとでも休めばたちまち、レベルが下がっていく。
 ましてや一段階上に上るには、全速力で駆け上がらなければならない、ということらしい。
 
 そして、法律知識ゼロの勉強開始段階をレベル0とし、司法試験に合格できる程度の実力がついた段階をレベル10とすれば、全速力でエレベータを駆け上がり、駆け上がりして、レベルを一段づつあげていかなければ合格レベルに達することは永遠にできず、同じレベルのところを延々と歩き続けるだけのドツボに嵌ることになるのだ。
 
 つまり、本人としては、毎日コツコツ勉強しているつもりなのに、一向にレベルは上がっておらず、レベルが一段上がりフラットな平面に足がかかる前に、エレベータの階段途中でうっかり腰など降ろそうものなら、ひゅ~~~っと下のレベルに落ちていく、ということ。
 歯を食いしばって全力で駆け上り、ほんの少し休憩し、すぐまた、次の段を全力で駆け上がる。
 この緩急を間違えると、勉強してもしても逆にレベルが下がるという恐ろしい事態が待っている。 

 勉強を始めたばかりのころに、この話を聞いたときはいまひとつピンと来なかったが、今ではその意味するところがよく分かる。
 実に言いえて妙。世の中上手いたとえを考え付く人がいるものだ。
 
 さて、そうは言っても、さすがにこの数日は参ってしまい、教科書を広げる気もおこらず、うろうろ出かけ歩いたり、ぼんやりネットを放浪したり、ワードをぱちぱち打ったりして、茫洋として過ごしている。
 そんなとき、更新を楽しみにしていたとあるHPが更新されているのを発見した。

 今年の春先だったか、このブログに写真を提供してくださっているMさんから「面白いHPがありますよ」と紹介され、それ以来、ひそかにときどき訪れては、日常をつづる奇妙におかしな文章と、私にはちんぷんかんぷんの、でもそれだけに不思議に惹かれる写真談議と、そして、内なる痛みをやわらかく昇華した写真の存在に惹かれ、こっそりと覗いていたHPである。
 
 ネットというのは、情報発信者は顔(あるいは顔に準ずるもの)を晒していながら、それを見る側は、透明人間のままでいられるちょっと不思議な世界だ。
 だが、それだけに、何のしがらみもなく、自分の感性に添うものを拾うことができる場所でもある。
 
 さて、そのHP。いつもおかしいのだが、昨日の更新はいつにもまして私の笑いのツボにはまり、私は思わずゲラゲラ声をたてて笑った。
 数日前の出来事と、その後の顛末を思うと、こんな風に声上げて笑うなんて、不謹慎ではないか、と即座に思ったものの、声をあげて笑った瞬間、この数日鉛を飲み込んだように重く沈んでいた心の一角が、ふっと少しだけ軽くなったのを感じていた。
  そして、10数年前の父の葬儀を思いだした。
 
 まだ若かったので、親を見送るという心の準備が間に合わず、私は哀しみに疲れ果て、呆然とした心で、ただ、そこに立っているだけだった。
 霊柩車のまわりに親族、列席者が居並び、位牌を持つ母が声を振り絞るようにして挨拶を終え、厳かな見送りの儀式は、間もなく出棺のクライマックスを迎えようとしていた。
 そのとき、何も考えられなくなった頭に、葬儀進行役を勤めていた葬儀社の方の朗々とした声が響きわたった。
 
「ほうちょうの儀」

 ああ、包丁の儀かあ。そういう儀式があるんだ。
 剣を抱いて、あの世に旅立つのかなあ・・・

 だが次の瞬間、私はとんでもない誤解をしていたことに気付いた。
 
 バタバタバタッ
 籠から放たれた白鳩がいっせいに霊柩車を取り囲むようにして飛び立つ。

 放鳥の儀、だった。
 
 哀しみで何も感じられなくなっていたはずなのに、うなだれたまま、私は思わず噴出していた。
 「ほうちょうって、包丁かと思った」
 隣に立つ妹が、小さな声で呟くのを聞き、私はますますおかしくなり、思わず笑い声をあげた。 母が睨むように私を見たので、私は慌てて笑いと、そして笑いと同時に浮かんできた涙をかみ殺し、一段と頭を低くした。

 ぷお~っ。出棺の合図。
 焼き場はすぐ隣だったので「どうぞ、ご親族の方々は、お車のあとを、お位牌を持って歩いてお進みください」との葬儀社の係員の指示にしたがい、母を先頭にして、私たちは霊柩車について歩き始めた。
 車とそして私たちを合掌して見送る人たち、うなだれたまま、私たちはしずしずと歩みを進めた。
 歩く速度に合わせて、亀の歩みで進んでいた霊柩車だったが、数メートルほど進んだ頃から、スピードが少しづつ速くなっていった。
 それに合わせて、私たちのしずしずとした歩みは、しだいにすたすたとした歩みになり、さらには、小走りにならないとついていけない速さになってきた。
 
 リハーサルなしでの本番一発勝負。
 「お車のあとをお進みください」の言葉の呪文にしばられた私たちは、スピードをあげる車の進みに遅れじと、見えない糸で車に引かれているかのように、車の後をバタバタと走り始めた。
 和服を着ていた母がまっさきに脱落。
 その脇を洋装の私と妹が「何、これ、速すぎる!」と眉根にしわ寄せて文句を言いつつ、抜かして走った。
 
 だが、遺影を抱え、喪服姿で走りながら、そのとき私はハタと気付いた。
 その時点に至るまでハタと気付かなかったところに、平常の精神状態ではなかったことを思うのだが、とにかく、そのときになってようやく私は、気付いたのだ。

 これって、すごく滑稽だ、と。

 包丁に続くバタ足。ひどく哀しいはずなのに、おかしくてたまらず、私は声を上げて笑いながら走った。
 笑いながら涙があふれ、涙を飛ばしながら、それでも私は笑い続けた。
 そんな笑いは、どこか常軌を逸していたけれど、それでも人間、こんなときでもおかしいものはおかしいと感じ、笑うことができるのだ、と私は思った。

 喪失はいつだって心に痛い。だけど、それでも人は笑いながら生きてくのだと、それでいいのだ、と今日の私は思っている。

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by law_school2006 | 2006-08-16 15:29
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