エッセイ『忘れな草』

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  この春のことだ。子どもの小学校の卒業式の日に、恒例の『感謝の会』が開かれた。
 公立小学校は数年で先生方の転勤がある。
 そこで、卒業式の日に、卒業する6年生が在学中お世話になった全ての先生方を転勤先の学校からお招きし、卒業を迎えたことの感謝をこめて、ささやかな食事会をするという催しだった。
 
 小学校の体育館を子どもたちが飾りつけをし、軽食を取りながら、子どもたち作成の6年間の学校生活のスライドを上映し、先生方に成長した姿を見てもらうという企画は、低学年時代の子どもたちを担任し、他校に転出した先生方などには特に好評で、父兄の間でも、6年時の担任だけではなく、幼いわが子を知っている先生方とともに卒業を祝いたいという希望が強く、ここ10年以上ずっと続いているものだった。
 
 生徒、父兄が席につき、先生方の入場を迎える拍手で『感謝の会』は始まった。
  「2年3組のご担任だった○○先生、続いて、4年1組のご担任だった××先生・・」
  入場する先生方の紹介が続き、会場は大きな拍手に包まれていた。
 
 「5年3組のご担任だったY先生」
 
 会場を包んだ拍手に、微妙な変化を感じたのは、私だけだったのだろうか。
 Y先生は、学級運営に問題ありとして、統率力があり父兄の信望の厚かった校長の不興をかい、明らかに左遷と分かる転出をさせられたという噂の先生だった。
 
 子どもの担任ではなかったので、直接知ることはなかったが、それでも、いかにも不器用そうな風貌や身のこなしと、避難訓練時の緊急引取りや授業参観で学校を訪れたときに垣間見る、ひときわ段取りの悪い3組の様子から、なんだか頼りない先生だ、という印象は否めなかった。
 
 だから、その先生が、相変わらずよたよたと奇妙な歩き方をしながら入場してきて、しかも手にはなぜかギターをぶらさげているのを見たとき、会場には一種のとまどいのような空気が漂った。
 
 なに?この先生、まさか歌でも歌うつもり?
 
 『感謝の会』では、先生方が子どもたちにはなむけのメッセージを言う時間が設けられていて、開会の挨拶とスライド上映が済み、食事が一段落つくと、先生方からのはなむけの言葉の時間となった。
 何人かの先生方の言葉のあと、Y先生の順番となった。
 
 先生はギターを持って立ち上がると、こう言った。
 
 「僕は、君たちと過ごした一年間、本当に楽しかった。僕は言葉で気持ちを伝えるのが苦手なので、いつも卒業生に送ることにしている歌を歌います」
 
 え?先生なのに、言葉で気持ちを伝えるのが苦手?
 妙に気負った、どこか素っ頓狂な先生の声に、ここで自己満足の音痴な歌でも披露されたら、聞いてるこっちが恥ずかしいなあ、と私は思った。

  役員が椅子とマイクを準備し、先生はギターをひざにのせて準備すると、ボロンと弦を弾き、歌い始めた。
 
 春には春の・・ 

 どこかで聞き覚えがあるような気もしたが、定かな記憶ではなく、したがって曲の題名も分からなかった。
 だが、最初の数フレーズを聞いただけで、私は先生の歌に引き込まれていくのを感じた。
 
 決して上手いとはいえない歌だった。
 だが、人にはそれぞれ痛みがあり、その痛みにそっと寄り添いたい、春夏秋冬それぞれの季節に出会いと別れがあり、僕の想いは忘れな草に託そう・・・
 
 そんな内容の歌詞が先生の弾くギターのマイナーコードのメロディーに載せられて、会場に流れると、心の奥の深いところに、言葉とメロディーが染み渡っていった。
 
 忘れな草、もう一度、追いかけて・・・

  弱い人間である僕、不完全な僕、不器用な僕、だけど、そんな僕でもいつでもキミのそばにいて、キミの力になりたい、僕はいつだってキミのそばにいる。
 落ちこぼれのキミの気持ちは落ちこぼれの僕が誰よりもよく分かっている・・・

 歌詞を越えた先生の心がダイレクトに伝わってきて、私は涙が溢れてきた。
 周りを見ると、あちこちで目頭をぬぐっている父兄の姿があった。
 朴訥とした歌声がこんなにも自分の心を揺さぶっていることに驚き、私は人間というものをほんの表面でしか見ていなかったことを心底恥ずかしい、と思った。
 そして、父兄の間では評判が悪かったが、生徒からは必ずしも嫌われていなかったわけが分かった気がした。

 「ありがとうございました」

 歌が終わり、先生が深々と頭を下げた。
 割れんばかりの拍手が会場を包んだ。
 そつのない滑らかな弁舌よりも、不器用な歌声の方が、はるかに深く人の心に届くことがある。

 歌詞も、そのメロディーも、一度聴いただけだから、ほとんど覚えてはいないのに、先生の伝えたかった先生の想いは、はっきりと心に記憶されている。
 その花言葉のとおり、忘れずに記憶されている。

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by law_school2006 | 2006-08-17 21:58
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