エッセイ『心の覗き窓』

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  日々のことに時をすごすうちに、今月も今日で終わりだ。
あれも書こう、これも書こうと書きたいと思う題材は常に心にあるのに、いざ机に向かうと、あの予習、この予習に追われるばかりでなかなか書きたいことを書く時間がとれない毎日を送っている。

 だが、そうはいっても、細切れの時間はあり、そういうときは、カチカチとマウスをクリックして、ネットの中を放浪してみるのが、ちょっとした息抜きになっている。
 そこに書かれたさまざまな言葉を眺めていると、人は皆、いろんなことを感じながら毎日を生きているんだな、ということをあらためて思い、小さな連帯感を感じる。
 
 秋から冬に向かう頃は、ただでさえもの寂しく人恋しい季節だが、毎年この時期を迎えると私はいつも心の奥が痛くなる。
 個人的な想い出が深く重なるからだ。
 真昼間の陽だまりの暖かさ、頬を刺す夕刻の冷たい風、舞う落ち葉。そんな晩秋から初冬への光景に重なる心象風景が、心の奥にくっきり刻まれているからだ。

 随分と時が経った、その思い出について詳しく書くことは今日はやめておこう。
 書き出すとおそらく涙が止まらなくなり、このエッセイを1時間で仕上げて、午後の授業の予習にとりかかろうと思っている予定がすっかり狂ってしまう。
 
 だが、思い返すと、心が痛くなるのは、何もこの時期ばかりに限らない。
 春には春の、夏には夏の感慨があり、これまで過ごしたいくつもの春、いくつもの夏にも同じように思い出はある。
 そして、普段は心の奥におとなしく納まっているそういう思い出たちは、季節の変化にかかわりなく、日常生活のふとした瞬間、それは鼻先を掠めるかすかな生活の匂いであったり、見上げた空の雲の動きであったり、昼下がりの住宅街の明るい光であったりするのだが、そういうありふれた瞬間に、急に現れ出でては、無防備な私をひどく慌てさせるのだ。
 
 思い出たちの不意打ちをくらうと、私は時々その場で動けなくなるほどの息苦しさを感じる。
 生々しく辛かった出来事も、時の流れのなかでまろやかに風化し、蘇る思い出はせつなくも甘美だ。
 心に溢れてくる想いを大きく深呼吸してやりすごす術を、私はいつの間にか身につけた。
 溢れる想いに心流されてしまうと、歯止めが効かなくなる自分を知っているからだ。
 
 心の声に従って生きる。
 
 私は理屈っぽい人間だと思うが、同時に滅法、情に動かされやすい人間だ。
 言い換えれば、自分の情を理屈でいかにコントロールしようとしても、そしてコントロールできたように見えても、私を動かしている根幹は、結局のところ理屈ではなく、情である、とつくづく感じるのだ。
 情の動きはときに理不尽で、わがままで、身勝手で、そして不道徳でさえある。
 だから、自分の情を野放しにすれば、世に言う「犯罪者」になることは簡単だと思ったりする。
 
 世の中に日々生起するさまざまな事件。
 それらの事件と自分とはけっして無縁ではないと感じる。
 もちろん人を殺したいと思うことと、実際に殺すこととの間には大きな隔たりがあるのだが、「私は虫も殺せぬ善人である」と言い切ることは、私にはできない。
 いくら認めたくなくても、自分のなかに、同じような弱さと愚かさがあることを、私は認めざるをえない。

 だから、先日裁判傍聴に出かけたとき、それは、年老いた窃盗犯人による累犯窃盗事件の刑事裁判だったのだが、「あなたはなぜ、懲りずにそうやって女性の下着を盗むのですか」と厳しく詰め寄る若い女性検察官の前で、「自分でも分からんのです・・・そのときになると、頭がぼうっとなってしまい、我慢できなくなります。ほんとに、ほんとに恥ずかしいです・・・」と、声震わせながら、繰り返す被告人の姿を見ていて、なんともやりきれない気持ちになった。
 
 下着泥棒が、社会的に許されるはずもない。
 ましてや、犯罪を摘発し、訴追する役目を担う検察官には職業的立場として、そういう窃盗を繰り返す累犯窃盗犯人に同情する余地などあろうはずもないだろう。
 
 だが、家庭を持つこともなく、女性との交流もなく、病と、貧しさと、孤独のなかにあって、それでも異性に触れたいという欲望を抑えきれず、女性の下着を盗んでは、それを丁寧に縫い合わせ、部屋で一人身につけることで欲望を解消することができたと告白する被告人の老いた背中を見ていると、人間の持つ根源的欲求の強さと、それを封じこめることの困難さを思わずにはいられなかった。
 
 そして、「ぼうっとするってどういうことですか?ごまかさないでください。いい加減なことを言わないように。あなたは、今までも何度も、同じような犯罪を繰り返してますね。どうして止められないのですか?恥ずかしくないのですか?反省していないからやめられないのではないですか?」と、答えに詰まる被告人に対して何度も問いただす若い女性検察官の左手薬指には、銀の指輪が光っていて、私は、なんとも複雑な気持ちになった。
 
 圧倒的に優位に立つ者が、圧倒的に弱い者に対して、答えようのない問いでもって、攻め立てる光景は、人として見るに忍びない心持がした。
 
 その瞬間、暗い情動に突き動かされて、犯罪と呼ばれる行為に走ってしまう被告人の人間としての弱さ。
 それが社会的に許される行為でないことは彼自身充分に承知していながら、それでもそういう行為をしてしまう弱さ。
 その弱さに同情すべき立場に、彼女がないことは分かっている。
 罪を罪として処断しなければ社会の秩序と安全は維持できないことも分かっている。
 
 だが、いかに刑罰を科そうと、おそらく人は根源的欲望に突き動かされてしまうとき、理性を忘れ、反社会的行動に走る生き物であるのだ。
 だから、いかに責め立てようと、反省を迫ろうと、その場になって、強い情動に駆られてしまえば、彼はまた同じように下着を盗んでしまうだろう。
 そして、前科が増えれば増えるほど、一般社会で普通に働いて暮らすことは難しくなるだろうから、更生はますます難しくなるだろう。
 そんなことを感じながら眺める法廷の光景は、だからどこか虚しく、人が人を裁くことの意味を考えさせられるのだった。

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by law_school2006 | 2006-11-30 10:25
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