エッセイ『季節はずれの旋風(つむじかぜ)』

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シュウメイ菊 ロス・ホモセントリック7in f5.6 プレスト400





 昨日の朝のこと。
 ゴミ出しをしようと外に出て、春を思わせる暖かな風に心が騒いだ。

 春は物狂いの季節と言うけれど、寒い冬を越え、暖かな空気に包まれると、私はいつも、落ち着かない心持に襲われる。
 寒い冬の間、心の底に冷たく固めておいた感情が、春の暖かさに触れると一気に溶けて溢れ出すようで、私の心は不安定になる。

 時ならぬ暖かな風を感じたとき、私の心には、この一年の間に逝ってしまった人への想いが一気に溢れてきた。
 ちょうど数日前、この一年に亡くなった著名人をテレビで特集していて、ああ、この人もあの人も、世を去ったのか、としんみりとしていたことも影響していたのかもしれない。
 そして、元東京都知事の通夜告別式の模様がテレビで繰り返し報道されていたことも、亡くなった者への追想を掻き立てる要因となったのだろう。
 
 その壮年時代を知っている著名人が、いつの間にか冥界に旅立つような年齢になっていたことを、その死去を知らせるニュースに触れるたびに思い知らされ、焦りにも似た寂しさを覚える。
 今年は特にその感が強い。
 たとえば、学生時代、その博学さに圧倒される覚えがした西洋史のK教授。
 今年のある日、新聞を開いたら、K教授死去の記事が掲載されていた。
 記事はその学問的功績を称え、社会的活動の広範さを紹介していたけれど、記事を読みながら、私は虚しかった。
 
 所詮人って、死ぬんだな。

 記事を読んで私が一番強く感じたのは、その単純な事実の冷厳さだった。
 若い頃、著名人の死亡記事に接しても、今のような感慨を抱くことはなかった。
 それは、大抵の著名人が、私が物心ついたころはすでにそれなりの年齢に達していて、歳をとった人がもっと歳をとって、そして亡くなったという認識しかなかったからだ。

 だが、今は違う。
 私が物心ついたとき、彼らは今の私よりもまだ若い年齢であり、私の脳裏には、若かりし時代の彼らの姿が鮮やかに刻まれている。
 エネルギーに満ち、若さに溢れ、時代を生き生きと駆け抜けた姿をはっきりと覚えているのだ。 そんな彼らが、いつの間にか人生の終わりの時を迎え、次々とこの世を去っていくことには、それが世の習いとはいえ、無常感を禁じえない。

 人の命には限りがあり、だからその限りある命を精一杯に生きようとするところに、生きることの意味と、命の輝きがある、と言葉で言うのは簡単だ。

 だが、精一杯に生きるとはどう生きることなだろう。
 どのように生きれば、この世を去る瞬間に自分の人生に満足して逝くことができるのだろう。

 15年前の師走に、まだこれからという年齢で、あっけなく逝ってしまった父のことやら、この夏の思いがけない別れやら、この先迎えなければならない大切な人たちとの別れやら、もろもろの行く末来し方に想いを馳せながら、今夜もまた、私は、答えの出せない問いに向き合っている。

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by law_school2006 | 2006-12-29 00:42
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