エッセイ『沈黙の絆』

d0085136_17414728.jpg
オリンパスフレックス ズイコー75mmf2.8 T-Max400



 先日、久しぶりにテレビドラマを見た。
 映画の公開に合わせたスペシャル番組「大奥」。
 タイトル『大奥』の二文字をみただけで、白檀の香なんぞがテレビ画面から漂ってくるようだ。

 しかし、大奥ものは、いつ見ても、どれを見ても、どうして、こうも面白いのだろう。
 シチュエーションも筋立ても、決まりきった分かりきった話のバリエーションでしかないのに、見始めると話に引き込まれ、ついつい見入ってしまう。

 思えば私が、最初に男女のコトガラを学んだのは、テレビの時代劇、それも大奥ドラマからではなかったかと思う。
 先日のドラマにも出てきたけれど、「上様が閨にそなたを所望しておられる。」と、大奥総元締めである身分の高いお中臈(ちゅうろう)が、厳かに、お目見え以下のお女中に告げるシーン。
 閨なるものが何なのか、所望するとはいかなることか。
 「ネヤってなあに?」、と一緒に見ている母に聞くことは、子供心にも何かはばかられるような響きがある言葉の意味を、だが私は、ドラマの続きをみることで、すぐ、理解することができたのであった。
 
 行灯の灯り揺らめく仄暗い部屋で、「所望された女」が純白の絹の着物を介助のお女中から着せてもらうシーン。
 「所望された女」が下ろした長い黒髪を介助のお女中に丁寧に櫛で梳いてもらうシーン。
 画面に台詞はなく、「所望された女」の少し青ざめた横顔がアップになる。
 
 そして長い廊下をお女中に誘導されて、白絹の着物の女が歩いていく先には、すでに控えの間に、お付のお女中が御簾に背を向けて端座しているのだ。
 御簾の向こうに、絢爛豪華な寝具が透けて見え、閨とは、とりあえず寝る部屋のことであるらしい、と幼い私は理解する。

 だが、その次に、やはり白絹の着物を着た男が現れ、「くるしゅうない、ちこうよれ」などと言ったり、白い着物の女を抱き寄せ、しゅるしゅるしゅるっと腰紐を解いたり、その衣擦れの音にかぶせて、「どうか、おゆるしを・・・」とか言う消え入りそうな女の声が聞こえたり、閨のなかでは、寝る以外の何か尋常ではないことが始まる気配に、幼い私が固唾を飲んで画面を凝視していると、御簾の向こうに二つの人影がもつれ合う場面が一瞬写ったかと思うと、突如、コマーシャルが始まるのだ。

 そして、コマーシャルが終わると、さっきまで白絹を着ていた女が、今度は色鮮やかな召し物を身につけ、花など活けているシーンになっていて、「○○○(所望された女の名)にお手がついたそうよ」「まあ、お目見え以下のお女中に、上様もお気まぐれだこと」とか言う、女たちの口さがない噂話が飛び交う(先日のドラマをごらんになった方はよくご存知ですね!)。
 
 と、そういうところばかりには意識が集中した日は、だが、すでに遠い。
 今ではまったく違うところに目がいく。

 現代では成立しえなくなった、身分違いの許されぬ恋を生きる二人の抑えに抑えた恋心が吐露されるシーン。
 江戸時代、という背景がなければ、まるでリアリティーを持たないシーンだ。
 
 思えば、携帯メールの出現により、かの恋愛ドラマの傑作「愛しているといってくれ」(トヨエツ&ときわたかこ)の、数々の名場面は、もはや成立しなくなりました。
 トヨエツ扮する聾唖者たる画家が、常盤貴子扮する女優の卵と恋に落ち、気持ちを伝えたくても伝えあえないもどかしさに、当時の視聴者は主人公たちと一緒になって、やきもきしたものですが、今日の若者には、あんな状況、「マジありえな~い」でありましょう。
 
 お互いに連絡の取れないままに相手の家を訪ね合い、それぞれが相手の家の玄関の前で、相手が戻ってくるのをじりじりしながら待っている、などというトンマな状況は、最早今日ではありえません。

 メールで一言「今どこ?」

 恋愛ドラマには欠かせなかったはずのすれ違い(古くは「君の名は」。ちょっと古すぎますか。)は、過去の遺物となり果てました。

 で、大奥。時代は6代将軍家宣公の御世。
 奥女中と出入りの小間物屋という身分違いの2人が、目と目で心を交し合うシーンのリアリティーと切迫感は、近年のお手軽恋愛ドラマが逆立ちしても太刀打ちできない、恋の真髄。
 いやあ、なかなか見ごたえありましたね~。
 ほんの数秒のシーンではありましたが。
 
 ずっと更新できなかった間も、ブログを覗きに来てくれていた人たちがいたことを、過去のアクセス記録に知る。私がほったらかしにしていた(せざるをえなかった)のに、忘れずにいてくれた人たちの存在に、沈黙の絆という言葉がふと浮かぶ。
 
 多弁を弄しなければ、相手と繋がっていられない関係は脆い。
 毎日連絡をし合わなければ、関係が途切れるような付き合いは虚しい。
 
 私が携帯メールをしないのも、そしてそれが苦手なのも、沈黙のなかに、心の絆を感じる幸福を、携帯メールは奪う気がするからだ。
 使い慣れれば、きっと、おそらく、とても便利なものなのだろうけど、「懐に手紙隠して日向ぼこ」(鈴木真砂女)と言うような句をこよなく好む感受性の人間にとっては、携帯メール文化は、文学的情緒の破壊としか思えない。
 
 一枚のモノクロ写真から広がるイメージを言葉に紡ぎ、ここに書く。
 読み手の方には、その言葉の向こうに、ご自身の心象風景を映し出していただく。
 そんなこころみを、これからもここで続けていけたなら、幸せです。

 皆様、どうぞよいお年をお迎えください。
 来年もよろしくお願いいたします。

[PR]
by law_school2006 | 2006-12-31 20:00
<< 新年快楽 エッセイ『クリスマスケーキ』 >>