エッセイ『心のかたち』

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 慌しい春休みだった。
 LSの学年末試験が2月初旬に終わり、少しはエッセイを書けるかと思っていたが、予想に反し、書けないままに時間が過ぎてしまった。
 受験、卒業、進学、法事、発表会、成人式、その他もろもろ家族がらみの行事が続いて時間的にも精神的にも書く余裕がなかった。
 
 だが、昨日までの5分咲きの桜が、一気に花開いて見頃となった今日、某所で某氏と、しばしの時を過ごして帰ってきたら、とても書きたい気分になって、今パソコンに向かっている。

 ・・・なんて風に書くと、「しばしの時って、ひょっとして、狭い空間に二人きりで甘い言葉を交し合い、ニャンニャンしたとか?」と思われる方がおられるかもしれないが、その想像はあながち間違ってはいない。

 もっとも、ニャンニャンは、したわけではなく見せていただいたのであり(ベンチに仰向けに寝転がり、にゃ~んと伸びをした愛猫のふわふわの白いお腹に一枚の紅葉がひらりと散り落ちた瞬間を切り取った傑作でした)、狭い空間で交わされたのは、甘い睦言ではなく、生きることの重さを背負った言葉でありました。

 その人が背負うものを、私がどれほどの確かさで受け止めることができたのかは定かではない。
 茶髪をビンビンに立て、シルヴァーのリングとブレスを手指にジャラジャラさせ、二回りほど若い彼女とのお揃いのペンダントを首に提げるファンキー親父は、「僕は多分、生き急いでいるんですよ。同病の若い仲間を何人も見送ってるんで。」と明るく語り、私も「そのときは、大いに泣いてさしあげますわ」と明るく答えた。
 
 私は、私の目の前にいる人が己の命の限りを見詰める日々を送っていることを、それ以上でもそれ以下でもない事実として受け止めたつもりだし、少なくとも「大変ですね。がんばってくださいね」などという、無責任な部外者の心持だけは持たなかったと信じたい。
 
 そして、その人とその仲間が開いたグループ展の受付を手伝いながら、私は、あらためて、「人とともにいること」の意味を思った。
 
 人と別れることや何かを失うことは、恐い。だが、人生をいくらか生きてきて、否応なしに別離や喪失の経験を積み重ねると、恐れるよりも、だからこそ、今、ともにいる人との時を大事にしようという気持ちが強くなる。
 そして、そのとき、意味をもつのは、肩書きや地位や学歴や職業ではなく、その人がどんな心の形をしていて、何をどう感じ、どんなことを考えているのか。その人の心に私の心がどう共鳴し、どう共感し、その人と私がどのように心を切り結ぶことができるのか、だけなのだと思う。

 勉強に専念する日々を過ごしていると、心の視野狭窄に陥っていくような息苦しさを感じることがある。
 今日は、そんな心が久々にハラリとほどけたような、心地良い時間だった。

追伸:とんと更新せぬままで、立ち寄ってくださった皆様にはすっかりご無沙汰を重ねまして申し訳もありませんでした。おかげさまで、元気にしていますので、どうぞ、ご安心ください。新学期が始まると、試験まであと1年。本気(って今までも本気のつもりでしたけど・・)で勉強に取り組みたいと思いますので、どうぞ温かく見守っていただければ、と存じます。

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by law_school2006 | 2007-03-31 00:42
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