定点観測
2007-04-12T00:58:04+09:00
law_school2006
photo&essay 味わいのモノクロ写真と エッセイの部屋
Excite Blog
エッセイ『桜』
http://lsdiary.exblog.jp/5139910/
2007-04-12T00:43:00+09:00
2007-04-12T00:58:04+09:00
2007-04-12T00:43:19+09:00
law_school2006
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新学期開始早々、授業をさぼって、花見にでかけた。
LS生たるもの、授業をさぼるなどということは本来許されないこと。
だが、授業が始まって早々、チト息が詰まってしまい、ぱあっと花見に出かけたい気分だったのだ。
授業開始日、久々に訪れたLSの自習室。
春休みの間、自宅から自転車で10分という近さにあるLSの自習室(24時間使える個人机とロッカーがある。ちなみに、専門書が揃っているLS専用図書室も24時間いつでも使える。)にもほとんど行かず、家の用事の傍ら、自宅で勉強していたので、自習室に行ったのは久しぶりだった。
早速に出された課題。次の授業まで時間があいていたので、自習室の机の上に資料を広げ、私はペンを走らせていた。
まあ、私が傍若無人であったのでしょうね、きっと。
ペンを走らせればペンの音がするし、ペンを置けばペンを置く音がする。
おまけに私は、コーヒーを瀬戸物のマイカップに入れて飲みながら勉強していたから、コーヒーを啜る音や、カップを置く音もする。
し~~~~んと静まりかえ(ることを求められてい)る自習室のなかでは、かような音は、神経に触るのですな、きっと。
ご注意を受けてしまいました。
いや~、まいったな~。
ま、しかし、確かに音をたてた私が悪い。
今後自習室で勉強することはやめることにしました。
で、やめついでに、授業もさぼり、お花見クルーズへとさっさと出かけてしまったのであります。
横浜の大岡川を上り、川から桜見物をしようという企画。
主催は、私基準では「合格点」であるところのナイスミドルK氏。
例の写真展のメンバーだ。K氏に初めてお会いしたのは、昨年の写真展のときだったが、私は短時間しか会場にいなかったので、K氏と言葉を交わす機会がなかった。
で、今年。
「いや、どうも、今回はお世話になります」という、くりくり目玉が印象的なK氏の陽気な笑顔を見ていると、私の脳裏にはどうしてもコレが浮かんできてしまうのだ。
BGMがナイス。けっこう嵌るゲームである。
で、キントトK氏のご趣味は釣り。
今回クルーザーが出発した場所も、キントト氏のプライベートな釣り座で、70センチメートル以上のお魚ちゃんが釣れるのだそうだ。
ピンクのストライプシャツでトラッドに決めて、趣味はカメラに釣りに模型飛行機に自作の真空管アンプに車はジャガーときたら、釣るのはお魚ちゃんばかりでないことは、太陽が東から昇って西に沈むのと同じくらいの自然の摂理というものだ。
実に分かりやすい。愛すべきオノコである。
で、14名が乗船してクルーザーは、いざ桜見物の川登りへと出発したのだけれど、いかんせん、乗ってる連中は本格的なカメラ野郎ばかり。桜が見え始めたとたん、パシャパシャカシャカシャうるさいことこの上ない。
しかも、彼らのカメラは、そんじょそこらのお手軽デジタルカメラとはワケが違う。
私にはどれも同じようにしか見えない箱様のものに、丸いガラス玉がひっついた機械を、ああでもないこうでもないといじくっている。
ファインダーを覗いては、ひとくさり薀蓄を傾け、シャッター音のわずかな違いにも、いちいち解説がつく。
そして、ソフトウェーブのロングヘアーを海風にたなびかせ、こちらは今日は身軽にデジカメ持参という女性フォトグラファーにしてからが、供されたおにぎりを、いざ頬張らんと口元に運んだまさにそのとき、突如被写体が目に飛びこんできたのでありましょう。
黒々と海苔の巻かれた大きな握り飯を迷わず口にパクリと咥え、彼女は両手でしっかりカメラを固定すると、シャッターを切ったのでありました。
人が真剣に打ち込む横顔は、美しい。
たとえ、ジャコ入り握り飯を口に咥えていたとしても。
クルーザーはさらに川を登り、桜が両岸から覆いかぶさるような絶好のロケーションにさしかかった。
おりしも、一陣の風が吹き、はらはらと舞う花吹雪。
傾きかけた日の光が、川面にきらきらと反射する。
カメラ野郎ども+女性写真家一名は、いっせいに立ち上がると、猛然とした勢いで、シャッターを切り始める。
あら~、綺麗だわ~と、天津甘栗なんぞを頬張っていた私は、その勢いに思わず圧倒される。そして、「ボクは今日は、撮りません」と、クルーザーが出発してからずっとお菓子を食べっぱなしのキントト氏と、思わず目が合う。
すごいですね・・・
フロントデッキに林立し、桜に向かってシャッターを切りまくるカメラ野郎(+女性写真家一名)たちの間で、私は、身をすくめながら小声で言う。
すると、ポテトチップスコンソメ味の巨大な袋の中に手を突っ込み、チップスをつまんで口に放り込んでいたキントト氏は、大きな目をさらに一回り大きく見開いて身をのりだした。
いつもと違う角度なので、燃えるものがあるんじゃあないですか。
バリバリバリ(ポテチをかじる音)
瞬時に、私の脳裏には、なぜか、桜ではないものがまざまざと浮かぶ。
そして、思わず品定めの目つきになりそうなところを、笑ってごまかす。
それにしても、キントト氏。実によく食べる。ポテチに歌舞伎揚げ、天津甘栗に柏餅、チョコレートに揚げもちおかき、ひっきりなしに食べ続けている。
そして、さらに、お握りやらマリネサラダやらが、キントト氏の「ご家族」と「ご近所の方」が陣取るフォアデッキ側から差し入れられる。
そう、今日のキントト氏はおうちモード。
だから、私は、喉元まで出かかる質問を、ぐっと飲み込むのだ。
「いつもは、そんな風に召し上がるわけじゃあないですよね?」
起き上がるなりポテチバリバリされた日には、余韻もへったくれもありまっせん。
川面に広がる花簾を後にして、海に出たクルーザーは、汽車道、コスモクロック、赤レンガ倉庫、と横浜の観光名所を海上から一巡り。
ベイクォーターまできたところで、私の右隣のごま塩頭の男性が、「ほぉ~、こういうところはウワキの女の人と来るところですな」と唐突に言う。
飲み続けた焼酎で、ちょっと酔っておられるようだ。
ちゃっかり聞こえないフリをしているキントト氏を尻目に、ゴマ塩男性が大声で話を続ける。
「もう、われわれのようなトシになると、そのくらいしか楽しみがなくてね~」
「いや、まさにそのとおりですなぁ」
左隣のハンチング帽の年配の男性が、わが意を得たりとばかりにあいづちを打つ。
「しかし、こんなややこい場所にあるんじゃ、女の人を連れてくる前に、こっちが迷子になっちゃいますな~」
ごま塩頭が、話を続ける。
「それじゃ、話になりませんわ、下見しておきませんとな。はっ、はっ、はっ~」
ご老体らの他愛のない会話に、キントト氏は知らぬ存ぜぬしらんぷりん。
私はつくづく思うのでした。
能ある鷹は爪を隠す。
チョット違う気もするが・・
そんなこんなで、2時間半。
クルーザーは桟橋に戻ってまいりました。
うっかり薄着で出かけた私は、身体の芯まですっかり冷え切り、誰か私を温めて・・と言ってみせたら、「ボクはカノジョに操たててますからダメです」などと、シルバーファンキーカメラ野郎に真顔でお断りされる。
それなら、アナタにあたためて欲しい・・・と写真家先生を見詰めて見せたら、ハハハハハと高笑いでいなされる。
ずっと舳先に陣取って、女性フォトグラファーと二人、マニアックなアニメ談議に花咲かせていた、オーナーなのに裏オフ会参加人間(すみません、内輪受けです。)に至っては、「ボクは全然無関係だもん」顔で、何の反応もない。
あのぉ、わたし、マジで寒いんですが~。
飲みに行きませんかというお誘いを宿題があるものですからと断り、帰宅。
足を伸ばし湯の温かさに身を横たえていると、身体がまだ揺れてるみたい。
ゆらり、ゆらゆら、はら、はらり。
こうして、今年の桜の季節が、優しく過ぎてゆきました。
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フォト・ギャラリー
http://lsdiary.exblog.jp/5111171/
2007-04-07T23:27:00+09:00
2007-04-08T07:18:27+09:00
2007-04-07T23:27:51+09:00
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photo by staka
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エッセイ『印画紙』
http://lsdiary.exblog.jp/5074981/
2007-04-02T00:28:00+09:00
2007-04-02T00:46:04+09:00
2007-04-02T00:28:57+09:00
law_school2006
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一昨日に続き、受付の手伝いに出かけた。
この際なので、もう、某所などともったいをつけるのはやめよう。満開の桜美しい横浜は元町公園内、洋館エリスマン亭のギャラリーで開かれた写真展の手伝いである。
趣味を同じくする者が開いたモノクロフィルムによるグループ写真展。そう、このブログに写真を提供してくださっている方が、そのお仲間たちと開いた写真展だ。
天気にも恵まれ、5日間の写真展は、今日大盛況のうちに最終日を迎えた。
えええええっ??
どうして、もっと早く言ってくれなかったのぉぉぉぉ???
知っていたら、出かけたのに~!
と言ってくださる方が、ひょっとしたら、いらっしゃっるかもしれない。
4ヶ月も前から決まっていた写真展。だが、私は、自分のブログで写真展のお知らせはしない、と決めていた。
それは、私なりの美学だ。
は?どういう美学よ?という問いが飛んで来そうだが、その問いに答えることは無粋というものだ。
遠くは九州からも飛行機で訪れた方もいらした写真展。写真を見ることはもちろんだけれど、撮影者と会って、さまざま語り合うことを皆様楽しみにしておられた。
「だから、ひとりひとりお相手していると、受付で案内する人がいなくなっちゃうんだよね。」
「はいはい。そういうことなら、私が受付をお引き受けします。」
撮影者それぞれのお身内、ご友人、その他お仲間がお土産片手に訪れる一方で、洋館見学がてら、若いカップルや年配のご夫婦、そして、親子連れが次々と入ってくる。
大きな写真機をぶら下げた初老の男性が、感心したように写真に見入っているかと思えば、身軽ないでたちの若者が、興味深げに、テーブルに並べられた蛇腹カメラを眺めたりしている。
よろしかったら、どうぞお持ちください。
観賞の邪魔にならないように、そっとパンフレットを差し出す。
これは、どうも、ありがとう。
お礼を言われ、ただ、それだけのことに、なんだか心が温かくなる。
そんなところで一人で座ってるんじゃ、つまらないでしょう?
女性メンバーの一人が、気を遣って言う。
あはは・・・つまらないと思ったら、私、来ないわ。
つまらないどころか、私は楽しいひとときを過ごしていた。
普段、一分を惜しんで(と言うのはかなり大げさですが・・)ガリガリと勉強にいそしむ日々を送っているので、何もしないで、ただ、座っているというのは、とんでもなく贅沢な時間なのだ。
窓ガラスの向こうにそよぐ木々の動きを眺めたり、さんざめく人声を聞きながら、心をぼんやりと泳がせる時間。
こういう時間を持つことに制約をかけるようになって、随分と時間が経った気がする。
いい加減、受験勉強にケリをつけたいものだと、つくづく思う。
これ、叔母が作ってきたので、女性の皆さんで分けてもらえれば・・・
二回り年下彼女とのお揃いペンダントなシルヴァーファンキー親父の手には、手作りの和紙小物と、数羽の折鶴。
あら、これ、パタパタ鶴じゃない!懐かしい!
ファンキー親父の叔母様は、小さくて可愛らしい「おばあちゃん」で、幼い日々の記憶に残る祖母の姿を、ふと思い出す。
そして、その思い出にたぐりよせられるようにして、去年の夏の写真展での出来事が蘇ってくる。
人生の通りすがりにすれ違っただけの人に、ふと寄せた心を受け取ってもらえなかったとしても、不満を言うべき筋合いではないのだろう。
だが、人生の通りすがりであっても、その時に触れた心は紛れもなく人の心ではあるはずで、
私は、そういう触れ合いを、ひとつひとつ心の宝箱にしまうような人生を生きたいのだ。
午後3時、写真展は終了し、撤収作業が始まった。
最後にみんなで写真撮りますから、ご一緒に。
今回の写真展の代表者のE氏が、私に言う。
いえいえ、私は結構ですわ。単なる手伝いですから。
いえいえ、そんなことおっしゃらず、是非どうぞ。
だが、これまた私の美学に反する。
通りすがりには通りすがりとしての振る舞い方がある。写真展のメンバーのお一方のお写真を、ブログに使わせてもらっているからといって、自分が写真展を開くかのようなノリで宣伝してみたり、当日だけ、ほんの少しお手伝いしただけの縁でもって、記念写真にニッコリ納まる感性を、私は持ち合わせてはいない。
これ以上引き止められないうちに、と手早く帰り支度を済ませ、私は洋館を後にした。
私には私が主人公として振舞っていい世界がある。
明日からは、また勉強に埋没する日々が始まる。だから、今日持ち帰ったた宝物は、今宵のうちに存分に愛でようではないか。
パソに向かい推敲を重ねながら、手慰みに鶴をパタパタさせてみる。
今日という日の思い出は、心の印画紙に刻み付ければ、それでもう、充分だ、と思う。
というわけで、皆様には、あとからのお知らせとなってしまいましたが、写真展に出品されたstaka氏の作品を、以下、ご紹介いたします。staka氏のご依頼を受け、写真に添える言葉はワタクシがつけさせていただきました。
===========
暮らし息づく街
夜風が頬を撫でる
そして、海
きらめく光は
不思議な夜の魔法
僕らは夜を走り
僕らは夜に佇む
ひそやかに
ひめやかに
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エッセイ『心のかたち』
http://lsdiary.exblog.jp/5062278/
2007-03-31T00:42:39+09:00
2007-03-31T00:42:39+09:00
2007-03-31T00:42:39+09:00
law_school2006
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慌しい春休みだった。
LSの学年末試験が2月初旬に終わり、少しはエッセイを書けるかと思っていたが、予想に反し、書けないままに時間が過ぎてしまった。
受験、卒業、進学、法事、発表会、成人式、その他もろもろ家族がらみの行事が続いて時間的にも精神的にも書く余裕がなかった。
だが、昨日までの5分咲きの桜が、一気に花開いて見頃となった今日、某所で某氏と、しばしの時を過ごして帰ってきたら、とても書きたい気分になって、今パソコンに向かっている。
・・・なんて風に書くと、「しばしの時って、ひょっとして、狭い空間に二人きりで甘い言葉を交し合い、ニャンニャンしたとか?」と思われる方がおられるかもしれないが、その想像はあながち間違ってはいない。
もっとも、ニャンニャンは、したわけではなく見せていただいたのであり(ベンチに仰向けに寝転がり、にゃ~んと伸びをした愛猫のふわふわの白いお腹に一枚の紅葉がひらりと散り落ちた瞬間を切り取った傑作でした)、狭い空間で交わされたのは、甘い睦言ではなく、生きることの重さを背負った言葉でありました。
その人が背負うものを、私がどれほどの確かさで受け止めることができたのかは定かではない。
茶髪をビンビンに立て、シルヴァーのリングとブレスを手指にジャラジャラさせ、二回りほど若い彼女とのお揃いのペンダントを首に提げるファンキー親父は、「僕は多分、生き急いでいるんですよ。同病の若い仲間を何人も見送ってるんで。」と明るく語り、私も「そのときは、大いに泣いてさしあげますわ」と明るく答えた。
私は、私の目の前にいる人が己の命の限りを見詰める日々を送っていることを、それ以上でもそれ以下でもない事実として受け止めたつもりだし、少なくとも「大変ですね。がんばってくださいね」などという、無責任な部外者の心持だけは持たなかったと信じたい。
そして、その人とその仲間が開いたグループ展の受付を手伝いながら、私は、あらためて、「人とともにいること」の意味を思った。
人と別れることや何かを失うことは、恐い。だが、人生をいくらか生きてきて、否応なしに別離や喪失の経験を積み重ねると、恐れるよりも、だからこそ、今、ともにいる人との時を大事にしようという気持ちが強くなる。
そして、そのとき、意味をもつのは、肩書きや地位や学歴や職業ではなく、その人がどんな心の形をしていて、何をどう感じ、どんなことを考えているのか。その人の心に私の心がどう共鳴し、どう共感し、その人と私がどのように心を切り結ぶことができるのか、だけなのだと思う。
勉強に専念する日々を過ごしていると、心の視野狭窄に陥っていくような息苦しさを感じることがある。
今日は、そんな心が久々にハラリとほどけたような、心地良い時間だった。
追伸:とんと更新せぬままで、立ち寄ってくださった皆様にはすっかりご無沙汰を重ねまして申し訳もありませんでした。おかげさまで、元気にしていますので、どうぞ、ご安心ください。新学期が始まると、試験まであと1年。本気(って今までも本気のつもりでしたけど・・)で勉強に取り組みたいと思いますので、どうぞ温かく見守っていただければ、と存じます。]]>
エッセイ『黄昏』
http://lsdiary.exblog.jp/4713323/
2007-02-10T22:53:00+09:00
2007-02-10T22:56:35+09:00
2007-02-10T22:53:43+09:00
law_school2006
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LSの期末試験がようやく終わった。
もっとも学校の期末試験が終わったとしても、目標は単位をとることにあるのではなく、来年の試験に合格することにあるのだから、そうそう喜んでもいられない。
とはいえ、2週間におよぶ試験期間中、試験が終わるたびに、「あ~、できなかった」「あ~、かけなかった」「あ~、まちがえた」という思いを重ねる日々は、かなりストレスフルだったので、試験が終わって、今日は正直ほっとしている。
だが、車は急にとまれない。
頭も心もなかなか試験モードから抜け切れない。
同級生の社会人男性連中は、夕方から飲みに出かける算段をしていたようだが、大学受験生を抱える母親でもある私としては、自分の期末試験が終わったからといって、ぱあっと飲みに行きましょうというわけにはいかないのだ。
試験後、少しだけ大学院のロビーで友人たちとおしゃべりをしたあと、家に戻り溜まっていた片づけものに手をつけた。
年末年始、LSの課題提出と、期末試験の準備と、センター試験直前の受験生の世話に追われ、年末大掃除もしていなかった家のなかは、ちょっと片付けを始めただけでたちまち5、6袋のゴミが出る。
昨春、転居をした際に、大量の不用品を捨てたはずなのに、クローゼットからは、あとからあとから、もう着ない服が出てくる。
捨てても捨ててもゴミがでる、この不思議なからくりは、一体どういうわけなのだろう。
もっとも、今日は家に戻ってみたら、先日通販で頼んでおいたパジャマが3着(家族の分も含めてですが)届いていた。
しかも冬物の分厚い生地なので、やたらとがさばる。
新しいパジャマが届いたからといって、今までのパジャマを捨てるわけでもなく、ついついカタログが目に入り、注文してしまった新しいパジャマ。
しかも暖冬のこの冬、こんなモコモコしたパジャマを着たら、暑くて布団から飛び出してしまいそうだ。
とりあえず、クローゼットにしまっておいて、来年着ることにする。
あ~、こうして、やっぱり、不用品は増え続けることになるのですね。
そうやって2時間ほど、片付けに精を出したにも関わらず、頭は依然、試験勉強モードから切り替わらない。
埃が舞い散った部屋に掃除機をかけながら、「こうやって身体を動かす家事は、気分転換になるわよね」と内心でつぶやいてみたとたん、「日常家事の範囲内」とかいうフレーズが唐突に頭に浮かぶ始末(すみません、業界受けです)。
試験期間中後回しにしていた雑用を片付けたら、一度頭を空っぽにしたほうがよさそうだ。
とりあえず、ずっと書けないでいたエッセイを書くことにする。 頭をほぐすために、梅酒のお湯割りをちびちび舐めながら、パソコンに向かっている。
そして、ぼんやりとフォトファイルに保存してあるモノクロ写真を眺める。
今夜の気分にふさわしい写真はどれだろう。
何を書くかも決まらないうちに、一枚の写真に目が留まる。と同時に、黄昏という言葉が頭に浮かび、その言葉がやさしい響きをもって心にじわりと染み入ってくる。
黄昏、たそがれ、た、そ、が、れ・・・
行き交う人の姿が薄闇に溶け込み、いにしえびとが、誰ぞ彼は、と問うた時刻。
モニターに浮かぶ、夕闇のグラデーションに、やさしく包まれるような心持を覚えながら、しばし、心を虚空に遊ばせる夜である。
注)【日常家事の範囲内】
民法761条本文は日常家事に関する取引の安全のため、夫婦相互に日常家事に関する連帯債務責任を規定している。「夫婦と問題文に書いてあったら、761条!」と受験業界で長年言われ続けている、試験頻出論点のひとつ。妻が夫に無断で、夫の土地を売ってしまった場合も、「日常家事の範囲内」と言えるか、といった形で問題になる]]>
新年快楽
http://lsdiary.exblog.jp/4489211/
2007-01-01T23:57:00+09:00
2007-01-02T00:04:34+09:00
2007-01-01T23:57:44+09:00
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ニコマートEL50mmf1.4
新年早々快楽に溺れましょう、という意味ではありません。
どうぞこちらをご参照ください。
今年もよい時を刻みましょう。
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エッセイ『沈黙の絆』
http://lsdiary.exblog.jp/4480991/
2006-12-31T20:00:00+09:00
2006-12-31T20:06:09+09:00
2006-12-31T20:00:35+09:00
law_school2006
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オリンパスフレックス ズイコー75mmf2.8 T-Max400
先日、久しぶりにテレビドラマを見た。
映画の公開に合わせたスペシャル番組「大奥」。
タイトル『大奥』の二文字をみただけで、白檀の香なんぞがテレビ画面から漂ってくるようだ。
しかし、大奥ものは、いつ見ても、どれを見ても、どうして、こうも面白いのだろう。
シチュエーションも筋立ても、決まりきった分かりきった話のバリエーションでしかないのに、見始めると話に引き込まれ、ついつい見入ってしまう。
思えば私が、最初に男女のコトガラを学んだのは、テレビの時代劇、それも大奥ドラマからではなかったかと思う。
先日のドラマにも出てきたけれど、「上様が閨にそなたを所望しておられる。」と、大奥総元締めである身分の高いお中臈(ちゅうろう)が、厳かに、お目見え以下のお女中に告げるシーン。
閨なるものが何なのか、所望するとはいかなることか。
「ネヤってなあに?」、と一緒に見ている母に聞くことは、子供心にも何かはばかられるような響きがある言葉の意味を、だが私は、ドラマの続きをみることで、すぐ、理解することができたのであった。
行灯の灯り揺らめく仄暗い部屋で、「所望された女」が純白の絹の着物を介助のお女中から着せてもらうシーン。
「所望された女」が下ろした長い黒髪を介助のお女中に丁寧に櫛で梳いてもらうシーン。
画面に台詞はなく、「所望された女」の少し青ざめた横顔がアップになる。
そして長い廊下をお女中に誘導されて、白絹の着物の女が歩いていく先には、すでに控えの間に、お付のお女中が御簾に背を向けて端座しているのだ。
御簾の向こうに、絢爛豪華な寝具が透けて見え、閨とは、とりあえず寝る部屋のことであるらしい、と幼い私は理解する。
だが、その次に、やはり白絹の着物を着た男が現れ、「くるしゅうない、ちこうよれ」などと言ったり、白い着物の女を抱き寄せ、しゅるしゅるしゅるっと腰紐を解いたり、その衣擦れの音にかぶせて、「どうか、おゆるしを・・・」とか言う消え入りそうな女の声が聞こえたり、閨のなかでは、寝る以外の何か尋常ではないことが始まる気配に、幼い私が固唾を飲んで画面を凝視していると、御簾の向こうに二つの人影がもつれ合う場面が一瞬写ったかと思うと、突如、コマーシャルが始まるのだ。
そして、コマーシャルが終わると、さっきまで白絹を着ていた女が、今度は色鮮やかな召し物を身につけ、花など活けているシーンになっていて、「○○○(所望された女の名)にお手がついたそうよ」「まあ、お目見え以下のお女中に、上様もお気まぐれだこと」とか言う、女たちの口さがない噂話が飛び交う(先日のドラマをごらんになった方はよくご存知ですね!)。
と、そういうところばかりには意識が集中した日は、だが、すでに遠い。
今ではまったく違うところに目がいく。
現代では成立しえなくなった、身分違いの許されぬ恋を生きる二人の抑えに抑えた恋心が吐露されるシーン。
江戸時代、という背景がなければ、まるでリアリティーを持たないシーンだ。
思えば、携帯メールの出現により、かの恋愛ドラマの傑作「愛しているといってくれ」(トヨエツ&ときわたかこ)の、数々の名場面は、もはや成立しなくなりました。
トヨエツ扮する聾唖者たる画家が、常盤貴子扮する女優の卵と恋に落ち、気持ちを伝えたくても伝えあえないもどかしさに、当時の視聴者は主人公たちと一緒になって、やきもきしたものですが、今日の若者には、あんな状況、「マジありえな~い」でありましょう。
お互いに連絡の取れないままに相手の家を訪ね合い、それぞれが相手の家の玄関の前で、相手が戻ってくるのをじりじりしながら待っている、などというトンマな状況は、最早今日ではありえません。
メールで一言「今どこ?」
恋愛ドラマには欠かせなかったはずのすれ違い(古くは「君の名は」。ちょっと古すぎますか。)は、過去の遺物となり果てました。
で、大奥。時代は6代将軍家宣公の御世。
奥女中と出入りの小間物屋という身分違いの2人が、目と目で心を交し合うシーンのリアリティーと切迫感は、近年のお手軽恋愛ドラマが逆立ちしても太刀打ちできない、恋の真髄。
いやあ、なかなか見ごたえありましたね~。
ほんの数秒のシーンではありましたが。
ずっと更新できなかった間も、ブログを覗きに来てくれていた人たちがいたことを、過去のアクセス記録に知る。私がほったらかしにしていた(せざるをえなかった)のに、忘れずにいてくれた人たちの存在に、沈黙の絆という言葉がふと浮かぶ。
多弁を弄しなければ、相手と繋がっていられない関係は脆い。
毎日連絡をし合わなければ、関係が途切れるような付き合いは虚しい。
私が携帯メールをしないのも、そしてそれが苦手なのも、沈黙のなかに、心の絆を感じる幸福を、携帯メールは奪う気がするからだ。
使い慣れれば、きっと、おそらく、とても便利なものなのだろうけど、「懐に手紙隠して日向ぼこ」(鈴木真砂女)と言うような句をこよなく好む感受性の人間にとっては、携帯メール文化は、文学的情緒の破壊としか思えない。
一枚のモノクロ写真から広がるイメージを言葉に紡ぎ、ここに書く。
読み手の方には、その言葉の向こうに、ご自身の心象風景を映し出していただく。
そんなこころみを、これからもここで続けていけたなら、幸せです。
皆様、どうぞよいお年をお迎えください。
来年もよろしくお願いいたします。
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エッセイ『クリスマスケーキ』
http://lsdiary.exblog.jp/4470806/
2006-12-29T23:03:00+09:00
2006-12-29T23:16:51+09:00
2006-12-29T23:03:04+09:00
law_school2006
未分類
オリンパス フレックス ズイコー75mmf2.8
クリスマスイブにケーキを買いに出かけた。
いわゆるホールのクリスマスケーキではなく普通のケーキだ。
普段から美味しそうなケーキがショーケースに並ぶ駅地下の食品街は、クリスマスが近づくにつれていっそう華やかになり、普段はダイエットを気にしているケーキ大好きの娘は、クリスマスには食べたいだけケーキを食べるのだ、と楽しみにしていて、一人で10個近くのケーキを選んだ。
鯛焼きなら夕食前に一度に3個は軽い、という娘は、スイーツ大食い選手権の予選くらいには出られそうだ。
駅地下の食品街には、有名ケーキ店がいくつも入っていて、イブの今日(って、もうイブはとっくに過ぎたが)は、朝から、どの店のウインドウにも溢れんばかりのケーキが並んでいる。
各種オードブルがうず高く準備されたデリカテッセンや、高級食材や輸入食材も扱う、やや高級志向のスーパーも入っている駅地下の食品街は、予想通りの混雑ぶり。
人混みが苦手な私は、雑踏に一歩足を踏み入れただけで、何も買わないうちから、すでに疲れてしまう。
すでにお目当てのケーキ店はいくつか決まっていたが、少しでも混まないうちにと思い、その中でも一番人気の店に、まず行くことにした。
店の前に行って見ると、『最後尾はここです』の看板を持ったアルバイト店員が「こちらにお並びください!!」と大声を張り上げ、決して広くないカウンターのなかに立つ4人の売り子が「お決まりの方、こちらにどうぞ!!」とこれまた負けじと大声を張り上げている。
混雑した御食事処でよく見かけるように、前もってお客に買うケーキを決めてもらうべく、クリスマスケーキカタログを片手に、サンタの服を着たアルバイト店員が、早く決めろとばかりに客をせかしている。
やっぱり、今日はすごいな・・と思いながら、私は、列に並ぶ娘から少し離れたところに立つ。 一緒に並ぶには、場所が狭く、邪魔になるからだったからだ。
いつも買っている店なので、娘は買うケーキもおよそ決めてはいたけれど、実際にショーケースに並ぶケーキを見ると、「わあ、おいしそう、どれにしよう」と目を輝かせている。
が、順番が来て、ショーケースの前に娘が立ったとたん、売り子が、すわ急げ、とばかりに「お決まりの方、ご注文をどうぞ!!!」「はい、お次の方!!!」と、大声を張り上げる。
とても、のんびりケーキを選んでいる雰囲気ではない。
一刻も早く買わないと、お客さん、迷惑ですから早く決めてくださいっ!と怒鳴られそうだ。
ただでさえ、雰囲気に飲まれやすい娘は、いや、娘だけでなく私も、「それとそれとあれ、OK、OK,それでいい」と早口になってケーキを選び(選ばせ)、娘は私が手渡した5000円札を大慌てで、売り子に差し出す。
「5000円のお預かりですっ」と売り子が切り口上でいい、「ご注文のケーキはこれでいいですねっ」と別の売り子が、「いえ、違います」とはとうてい言えない殺気立った仕草で買ったケーキを娘に確認させている。
「あ、はい、いいです・・・」
世間慣れしていない娘は、へどもどとしながらお釣りを受け取り、私は私で、あ、ポイントカード(買い物するたびポイントがつき、溜めたポイントで買い物ができるアレです。)を出すのを忘れたと思ったものの、とても今更「あのぅ、ポイントカードを・・」と言い出せる雰囲気ではなく、こんなにケーキ買ったのにもったいない、とみみっちいことを考えたりする。
そのあと、別のケーキ屋で、特製和栗のモンブランを2個買い、また別の店で、チョコレートケーキを買い、ケーキを買うだけの買い物で、どっと疲れてしまう。
駅前のこれまた大混雑のアーケード商店街を抜け、家に向かう静かな路地に入ったところで、ほっと一息ついた。
そして、「いやあ、すごかったね」と娘と顔を見合わせ、そして、初めて、ん??と気付いた。
ちょっと待って。あの有名ケーキ屋。よく考えたら、ショーケースの前に4人、その横に3人くらいしか、人、並んでいなかったよね。
最後尾のプラカードを掲げていたけど、よくよく考えたら、そんな長蛇の列が出来てたわけじゃないよね。
第一、普段のときだって、あのケーキ屋は常時数人の客がケーキを選んでいて、いつもちょっと待たないと自分の順番が回ってこないよね。
それに、ケーキというのは、みかんのつかみ取りじゃないんだから、一個一個をゆっくり眺めて、選ぶ楽しさ、味わいたいよね。
そのために、ちょっとばかり並んで待ったって誰も文句言わないよね。
う~~む、あの殺気立った雰囲気は、一体何?
さっきはついついそれに飲まれちゃったけど、よくよく考えたら、これっておかしい。
店員がやたらと大声張り上げるし、客を追いたてせきたてるから、こっちもそれに乗せられたけど、なんかこれっておかしいよ。
ケーキ自体は美味しいけれど、年に一度のクリスマスの楽しい買い物、あんなに追い立てられるようにして、買うことなんかないじゃないか!
何かを大きく間違えているような気がする有名ケーキ屋の喧騒と、その喧騒にまんまとのせられ、早く買わないと損をするような気分にさせられ、ひっつかむようにしてケーキを買ったことの馬鹿馬鹿しさが、静かな路地裏を歩くうちに、ひしひしと身に迫ってきた。
実は、家の近くにもう一軒ケーキ屋があって、駅地下の帰りにはそこでもいくつかケーキを買おうということになっていた。
駅から20分以上も歩くところにポツンとあるケーキ屋なので、近所の人間しか買いには来ない。
都内にもう一店店舗があるらしく、ひょっとしたら知る人ぞ知るという店なのかもしれないが、立地条件が災いしているのか、いつも行くたび空いていて、このケーキ屋潰れなきゃいいけど、とひそかに心配している。
というのも、ここのケーキはひとつひとつが実に丁寧に作りこまれていて、今まで食べたどの有名店のケーキよりも美味しい、というのが私と娘の一致した意見。
こんなに美味しいケーキ屋がどうしてもっと有名にならないの?
グルメ雑誌で取り上げて欲しい、と思う一方で、有名になって雑誌片手の人が押し寄せるようになってもらいたくないから、やっぱり有名にならないで欲しい、とも思ったりする。
すでに大きなケーキの箱をいくつかぶら下げて、店のドアを開ける。さすがに今日は先客がいる。いらっしゃいませ、という店員の声は、でも普段と同じ。
店内の甘い香りにふわりと包まれ、それだけで幸せな気分になる。
チョコレート、生クリーム、果物、ムース、宝石のようなケーキが並ぶガラスケースを、どれにしようかと眺めていると、店のドアが開いて、次のお客が入ってくる。と間もなく、また次のお客が。
あな、珍しや。
やはり、今日はイブなんだ、と実感する。
ショーケースの前では、4人の客とそれぞれの連れが何人かいるので、全部で10人以上の人間が、どれにしようかと、ケーキを前にして思案顔。
どれもこれもが美味しそうで、なかなか買うケーキが決められない。
だが、店員はもちろん、早く決めろと言わんばかりの「お決まりの方はどうぞっ」などとは叫ばない。
いつものとおり、いつものように、ゆっくり、のんびり、ケーキ選びの時間が過ぎていく。
これにしようよ、こっちもおいしそう、でもこれ素敵じゃない?これも食べてみたいわね、あら、でもこれもいいわ、そんなに食べられる?平気、食べられる、あら、そう、じゃ、これも買う?そうね、こっちも買いましょう。
そうやってあれもこれもと選んでいたら、いつの間にか、なんと12個。
さっき買ったケーキと合わせると・・・ええっ22個!
一体誰が食べるのよ~。
「大丈夫!全部たべるぅ!」
娘は満面の笑みだ。
帰宅後、私は一個、娘は3個、買ってきたばかりのケーキを早速食べた。
殺気立って買った有名ケーキ屋のケーキは、美味しくはあったけれど、私の心にはひっかかりが残った。
あの場で売り子に「もう少し、ゆっくり選ばせていただけませんこと?選ぶこともクリスマスケーキを買う楽しみでございましょう?」と、鷹揚に言ってみたら、どうなっていただろうか?
売り子は、そして多分他のお客も、なんなのこの人?という迷惑顔で、私のことをジロジロ見たことであろう。
自分のペースを守ること。周囲の喧騒に流されないこと。
巷はすっかり行く年、来る年、おせちに門松、謹賀新年ムードだけれど、このブログ、遅まきながら、今夜はクリスマス気分です。]]>
エッセイ『季節はずれの旋風(つむじかぜ)』
http://lsdiary.exblog.jp/4465857/
2006-12-29T00:42:00+09:00
2006-12-29T23:17:41+09:00
2006-12-29T00:42:29+09:00
law_school2006
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シュウメイ菊 ロス・ホモセントリック7in f5.6 プレスト400
昨日の朝のこと。
ゴミ出しをしようと外に出て、春を思わせる暖かな風に心が騒いだ。
春は物狂いの季節と言うけれど、寒い冬を越え、暖かな空気に包まれると、私はいつも、落ち着かない心持に襲われる。
寒い冬の間、心の底に冷たく固めておいた感情が、春の暖かさに触れると一気に溶けて溢れ出すようで、私の心は不安定になる。
時ならぬ暖かな風を感じたとき、私の心には、この一年の間に逝ってしまった人への想いが一気に溢れてきた。
ちょうど数日前、この一年に亡くなった著名人をテレビで特集していて、ああ、この人もあの人も、世を去ったのか、としんみりとしていたことも影響していたのかもしれない。
そして、元東京都知事の通夜告別式の模様がテレビで繰り返し報道されていたことも、亡くなった者への追想を掻き立てる要因となったのだろう。
その壮年時代を知っている著名人が、いつの間にか冥界に旅立つような年齢になっていたことを、その死去を知らせるニュースに触れるたびに思い知らされ、焦りにも似た寂しさを覚える。
今年は特にその感が強い。
たとえば、学生時代、その博学さに圧倒される覚えがした西洋史のK教授。
今年のある日、新聞を開いたら、K教授死去の記事が掲載されていた。
記事はその学問的功績を称え、社会的活動の広範さを紹介していたけれど、記事を読みながら、私は虚しかった。
所詮人って、死ぬんだな。
記事を読んで私が一番強く感じたのは、その単純な事実の冷厳さだった。
若い頃、著名人の死亡記事に接しても、今のような感慨を抱くことはなかった。
それは、大抵の著名人が、私が物心ついたころはすでにそれなりの年齢に達していて、歳をとった人がもっと歳をとって、そして亡くなったという認識しかなかったからだ。
だが、今は違う。
私が物心ついたとき、彼らは今の私よりもまだ若い年齢であり、私の脳裏には、若かりし時代の彼らの姿が鮮やかに刻まれている。
エネルギーに満ち、若さに溢れ、時代を生き生きと駆け抜けた姿をはっきりと覚えているのだ。 そんな彼らが、いつの間にか人生の終わりの時を迎え、次々とこの世を去っていくことには、それが世の習いとはいえ、無常感を禁じえない。
人の命には限りがあり、だからその限りある命を精一杯に生きようとするところに、生きることの意味と、命の輝きがある、と言葉で言うのは簡単だ。
だが、精一杯に生きるとはどう生きることなだろう。
どのように生きれば、この世を去る瞬間に自分の人生に満足して逝くことができるのだろう。
15年前の師走に、まだこれからという年齢で、あっけなく逝ってしまった父のことやら、この夏の思いがけない別れやら、この先迎えなければならない大切な人たちとの別れやら、もろもろの行く末来し方に想いを馳せながら、今夜もまた、私は、答えの出せない問いに向き合っている。
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エッセイ『道玄坂散策』
http://lsdiary.exblog.jp/4453116/
2006-12-26T21:36:00+09:00
2006-12-26T22:01:14+09:00
2006-12-26T21:36:37+09:00
law_school2006
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ニコマートEL50mmf1.4
数年前のこと。 私は思い立って、渋谷の道玄坂ホテル街を歩いてみることにした。
何がしかの思い出をそこに辿ろうとしたわけではない。
実はまったくその逆。
学生時代、渋谷は地元の町であったにも関わらず、名高い道玄坂ホテル街に、私はただの一度も足を踏み入れたことがなく、その後の人生においても、さっぱりご縁がなかった。
井の頭線渋谷駅から神泉駅にかけて、その手の施設が密集していることは知っていたが、残念なことに、誰も私を連れて行ってくれなかったのだ。
連れて行ってもらえないなら、自分で行ってみるしかない。
普段足を運ばないような場所に行ってみると、意外な発見をすることがある。
怪しげなところにやたらと足を踏み入れるのは危ないが、渋谷のホテル街を散策したとて、別に危ない目に会うこともなかろう。
そこで、ちょっとした所用があって出かけた渋谷の街、用事が済み、ひとりコーヒーを飲みながら、さて、これからどうしようかと思っていた私は、時間つぶしに道玄坂散策をしてみることにした。
その頃の私はまだ法律の勉強を始めていなかったから、今よりも時間的に余裕のある日々を過ごしていたのだ。
だが、行ったことのないホテル街。どこをどう行けばたどり着くのか分からない。
「ホテル街はどこですか」なんて、道行く人に聞けるわけもない。
もっとも、そういう場所は表通りを一歩入ったところにあるのが、およその相場だから、賑やかに店が立ち並ぶこの坂のどこかを曲がれば、きっとたどりつけるに違いない。
・・・ということで、ある路地をひょいと入ったら、いきなりホテル街のど真ん中に出た。
あまりのあっけなさに、ちょっと驚く。
賑やかに人が行き交う目抜き通り沿いのファミレス脇の横の道をほんのちょっと上っただけで、いきなり出現したホテル街。
空気が急に変わり、周囲にはラブホテル以外の建物がひとつも見えない。
平日の昼前。
明るい昼の光のなか、狭い路地の両脇に、びっしりとラブホテルが並んでいる。
この時間、路地を歩く人は少ない。
もっとも、ここは散策目的で訪れる場所ではないだろうから、どの時間帯でも、路地を歩く人はそう多くはないのだろう。
こういう場所にひとりで足を踏み入れたのは初めてだったから(じゃあ、ひとりじゃなければ足を踏み入れたことがあるのね、とここは突込みが入るところでありましょう)、私は面白くてキョロキョロと辺りを見回しながら歩いた。
人通りが少ないとはいえ、ちらほらとカップルの姿が見える。 そして、この路地は周辺住民の生活道路でもあるのだろう。
買い物カートを押しながら、腰の曲がった老女がひとり、ゆっくりと坂道を下りていく。
ご休憩、ご宿泊の表示が並ぶ道を、もつれ合って歩くカップルのすぐ横を、覚束ない足取りで老女が買い物カートを押してすれ違う光景は、写真の被写体としては、なかなか面白そうだ。
場所柄か、料金表示には「学割」の表示も多い。
そして、実際、まだ10代半ばではないかと思われるカップルが、向こうから腕組んで歩いてくる。
え?あんな子どもがスルの?
思わず親の視線になる。
車も通れないような細い路地を抜けると、ちょっと広い道に出た。出たところも全部周囲はホテル。
電気工事の車が、レモン色をした小城のような建物の前に止まって、作業員が数名、電柱の上で作業をしている。
どこに向かうという当てもなく、林立するホテルの間をそぞろ歩く私に、作業員のひとりがぶしつけな視線を投げて寄越す。
もっともそう思ったのは私の自意識過剰であって、作業員に他意はなかったのかもしれない。
だが、右も左も前も後ろもホテルが密集する袋小路のような場所。ひとり迷い込んだ無防備な女が、数人の作業員風の男たちに取り囲まれ、そのまま連れ込まれる、なんていうのは、実にありがちなシチュエーションではないか。
ものの見事にホテルだけが立ち並ぶ場所を歩きながら、私の妄想は次々に膨らみ、AVのロケハン(AV撮影はロケハンってするのでしょうか?)をしている監督の気分になってくる。
坂を上りきったところを右に曲がるとゆるやかな下り坂に出たが、そこもまた両側はホテル。
見通しがよくなり、袋小路を歩く息苦しさからちょっと解放された気がしたと思ったら、鼻先にいきなり人が出てきて、ぶつかりそうになった。
ホテルの出入り口のところに目隠し風の壁があり、周囲から見えにくくなっていたので、キョロキョロしながら道の端を歩いていた私が、そこがホテルの出口だということに気付かず、建物から出てきた二人連れの背中にぶつかりそうになったのだ。
私はあわてて足を止めたが、建物から出てきたばかりの二人連れを、図らずも、至近距離から観察することになった。
というのも、この二人連れ、男性はラフな服装の、まだ、男の子といったほうがぴったりの若い学生風で、女性はロングヘアーの巻き髪、ハイヒールのお洒落な丸の内OL風。
このカップルが普通に街を歩いていたならば、ちょっとミスマッチングなカップルだなあ、と思うだけで済んだであろうが、こういう場所で、こういうシチュエーションで遭遇するとなると、どんなに想像力が乏しい人間でも、目の前の2人が、今しがたそこのホテルの部屋の中で繰り広げたのであろう光景が目前に浮かび、ミスマッチングは逆に淫靡さをかきたてる素材となる。
きれいに整えた髪とメークで、服装にも隙が見られない女性に比べると、若い男の子の方は、ぼおっと赤く上気した顔といい、気だるそうな表情といい、色褪せたシャツにブルゾンといい、この女性にすっかり精気を抜かれたのか?と思いたくなるような惚けぶり。
建物を出るなり、名残惜しげに女性に手を絡めて歩き出したところなんぞ、若い男の子のいじまし気な様子が見て取れる。
女性はそんな彼に素直に手を取られていたけれど、それはそれ、これはこれ、とばかりに背筋をピンと伸ばして歩いていく。
二人の後ろ姿を眺めつつ、私の妄想はいやが上にも掻きたてられる。
ちょうどお昼前。
この女性は、これから会社にご出勤なのだろうか?
そして、男性は、このままバイトにでも行くのか、それともアパートに帰って、惰眠をむさぼるのだろうか?
そうかと思えば、ふたたび入った狭い路地では、背広姿にビジネスバックの中年男性が、足早に建物から出てくるところに遭遇する。
しばらくそこで観察していたが、一向に女性が出てくる気配がない。
それどころか、居並ぶホテルの違う出口から、またもや背広姿にビジネスバックの中年男性が一人で出てきたりする。
今度もまた、なぜか女性の姿が見えない。
すると、次には、また別のホテルの出口から、熟女とはまさしくこういう女性を言うに違いない、という女性が出てくる。
派手なブラウスにタイトなスカート。
見るからに織の高級そうな生地のジャケットを羽織っている。
濃い目のメーク。近くに寄ったら、香水の匂いが、きつく漂うに違いない。
年の頃は、40代後半から50代。ジャケット越しにも分かる大きな胸と肉付きのいい腰回り。
おそらく、ボディースーツとガードルで全身きりきり締め上げているに違いない。
「崩れかけた豊満な肉体」という形容詞がいかにもぴったり。
服を着てても、着てない姿態がくっきりと想像できるタイプだ。
ホテルの出口で立ち止まり、手に持った(おそらく)シャネルのバックの中身をなにやら確認していたが、こちらは、すぐ後から、連れの男性が出てきた。
見て、思わず、心のなかで笑った。
女性の身体の幅の半分もないのではないか、と思うほどに肩の薄い、貧相な男性。背も低く、頭髪も薄い。
自信たっぷり、艶やかな表情を浮かべるゴージャス感漂う女性と、万年平課長といった地味な背広姿の、影薄く、疲れた表情を張り付かせている男性。
なんだか、妙にチグハグではあるけれど、俗にハゲている男性は精力が強いと言うし、地味な背広は、どうせ脱いでしまうのだから、何の問題もないのだろう。
この男女もまた、さきほどのミスマッチングカップルと同様、こういう場所ならではの組み合わせなのかもしれない。
後日のために、メモ帳片手に観察を続ける私だったが(だから今、こんなに詳しく書けるのです)次から次と、ほやほやの人たちを見ているうちに、さすがに妙な気分になってきた。
そして、こんなところで一人他人の情事の後先を観察していることが馬鹿馬鹿しくなってくる。
AV見るより、する方がいい、と言い放った友人がいるが、こういうものは、やはり人様のを見るより、自分でする方がずっと楽しいことだろう。
よおし、次は、きっと誰かに連れてきてもらうぞお!
それにしても、渋谷の真昼のホテル街が、こんなに活況を呈していたとは、不覚にも知りませんでした。
げに、百聞は一見に如かず、です。
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エッセイ『自画像』
http://lsdiary.exblog.jp/4441467/
2006-12-24T23:33:00+09:00
2006-12-26T22:02:23+09:00
2006-12-24T23:33:15+09:00
law_school2006
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ニコマートEL50mmf1.4
DJOZMAという歌い手がいる。
ご存知ない方は、今年の紅白にも出るので、そこでチェックしてもらいたい。
音楽を聴いているヒマがあったら、民訴(民事訴訟法)の定義(たとえば、【証拠方法】とは裁判官がその五官の作用によって取り調べることのできる有体物であって証拠調べの対象となるもの【証拠資料】とは、裁判所が証拠方法を取り調べて獲得した内容【証拠能力】とは証拠となりうる資格【証拠力】とは一定の証拠資料が事実の認定に役立つ程度【証拠原因】とは裁判官が事実の存否につき確信を抱くに至った原因となった証拠資料および弁論の全趣旨・・・といったもののことです)のひとつも暗記する時間に費やすべし、という生活を送っているので、最近の音楽事情には滅法疎くなっているが、年末は音楽番組が多く、夜のちょっとした空き時間にテレビをつけると、今年流行った歌をまとめて聴くことができる。
DJOZMAの『アゲアゲevery騎士(ナイト)』なる楽曲は、街中でもよく流れていて、確かにノリがいい曲だから一度聴くとメロディーが耳に残り、なるほどいかにも「流行の歌」としてのオーラが感じられる。
だから、歌い手である彼がアフロなヘアにパンツ一丁(正しくは歌の途中からパンツ一丁になる)という、いかにも受け狙いの安易ないでたちであろうが、大勢の男性バックダンサーたちが、皆揃ってパンツ一丁という芸のないいでたちあろうが、女性ダンサーたちが当然のごとく限りなく下着に近いブラ&超ミニスカートであろうが、そして彼女らがお約束どおり、歌い手を取り囲み腰をクネクネと絡ませる(こすり付けるといったほうが的確か)というポーズを取ろうが、テレビカメラが歌い手の股間部分を意味もなくドアップで映そうが、それはショービジネスとしての1つの姿なのであろう。
だが、この楽曲が、40代男性から高い支持を集めているとなると、ちょっと話は違ってくる。
というのは、『アゲアゲ・・』は確かにノリがいい曲ではあるが、私が見るに、それはせいぜい大学運動部コンパでの男子学生の宴会芸レベルのノリでしかない。
見世物、流行物(はやりもの)として流行に敏感な世代が通過儀礼として、かような馬鹿騒ぎに興じるのは健全だと思うが、四十を超えた、いい大人の男たちから高い支持率を得るとは一体どういうわけか。
ここでいう支持率とは、その一年流行った歌について、男女別年代別に支持率データをつけてベストテンを発表する番組における支持率なのであるが、この番組はなかなかに面白く、10代20代からは圧倒的な支持を得ながら、40代以上には全く支持されない(おそらく、その歌手の存在がこの年代には知られていない)歌い手もいれば、逆に、40代50代の女性たちの圧倒的支持を得ている氷川きよしなど、「なるほど」と思わされるのだ。
普段音楽番組を見ることのない私などには、へえ~っ、こういう歌がこういう年代の人たちから支持されるんだ、ということがわかり、いろいろと勉強になる。
そこで、DJOZMA。
バウンスバウンスと意味なく叫びまくり、ノリノリで淫らなチューしよう!(全歌詞を知りたい方はこちらをご参照)とパンツ一丁で腰をくねらせ、テレビカメラに向かって股間を突き出す踊りは、まさに伝統的な運動部宴会芸。
下ネタ勝負!とにかく脱いじゃえ!の単純な悪ノリ芸なのだ。
下ネタ勝負が悪いとは思わないし、単純な悪乗り芸に打ち興じることも、また楽しかろう。
楽しむことに理屈などいらぬ。
飲めや歌え、脱げや踊れ。
だが、私が思うに、このような馬鹿騒ぎは、若い時代に仲間内で共有し、そしてそこで卒業しておくべきもの。
人間、その年齢にふさわしい経験というものがあるだろうと思うのだ。
四十を越えた男たちがこういうノリに高い支持を与える日本と言う社会の幼稚性には、ほとほとゲンナリしてしまう。
ちなみに、40代男性についでDJOZMAを高く支持していた層は、小学生男女だ。
DJOZMAを支持するという40代男性は、多分、おそらく、あのイタリア人モデルが表紙を飾っている雑誌の愛読者層と重なるのではないかと思われる。
あなたに必要なのはお金ではなくセンスです、というのが確かあの雑誌のキャッチコピーであったかと思うが、雑誌を買った時点で、すでにまったくセンスがない、と私には思えてならない。
このブログの愛読者(かつネタ提供者)のお一人が、ご自身のブログのなかで、このイタリア人モデルを評して「オチ○チンが服着てるような人」と書いているのを読んだ瞬間、その喩えの的確さに大爆笑した。
そして、そこのところをまさに雑誌の中心コンセプトとして編集がなされ、結果、この雑誌が、近来の雑誌界でまれにみるヒットとなったところに、世の中の真実は紛れもなく映し出されているのだ。
エロスの追求は人間の根源的欲求であるし、性の喜びを謳歌することに躊躇はいらないだろう。
だが、その追求も謳歌も年齢相応の経験という深みが伴わなければ、浅薄な欲望の発散に終わる。
そして単なる欲望が歯止めなく垂れ流される社会では、エロスは芸術の源ではなく、際限なき欲望世界への入り口にすぎなくなろう。
イタリア人モデルが表紙の雑誌をはじめとして、昨今雨後の筍のように創刊が相次いだ同種の男性誌と、これら男性誌に呼応するかのように「あなたの人生オトコは必要ですか」というような、愚問としか言いようのない問いかけを掲げる女性誌の創刊を見ていると、近頃の日本人の官能世界の貧しさを感じざるを得ない。
ノリノリだぜいっ!と欲望オーラ全開のDJOZMAの踊り謳う姿をテレビ画面にぼんやりと眺めていると、画面いっぱいの乱痴気騒ぎに、中身がスカスカの現代人の自画像が浮かびあがるようで、妙に情けない気分になるのだった。
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エッセイ『心の覗き窓』
http://lsdiary.exblog.jp/4269846/
2006-11-30T10:25:26+09:00
2006-11-30T10:25:26+09:00
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law_school2006
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マミヤRB67 KL150mmf3.5
日々のことに時をすごすうちに、今月も今日で終わりだ。
あれも書こう、これも書こうと書きたいと思う題材は常に心にあるのに、いざ机に向かうと、あの予習、この予習に追われるばかりでなかなか書きたいことを書く時間がとれない毎日を送っている。
だが、そうはいっても、細切れの時間はあり、そういうときは、カチカチとマウスをクリックして、ネットの中を放浪してみるのが、ちょっとした息抜きになっている。
そこに書かれたさまざまな言葉を眺めていると、人は皆、いろんなことを感じながら毎日を生きているんだな、ということをあらためて思い、小さな連帯感を感じる。
秋から冬に向かう頃は、ただでさえもの寂しく人恋しい季節だが、毎年この時期を迎えると私はいつも心の奥が痛くなる。
個人的な想い出が深く重なるからだ。
真昼間の陽だまりの暖かさ、頬を刺す夕刻の冷たい風、舞う落ち葉。そんな晩秋から初冬への光景に重なる心象風景が、心の奥にくっきり刻まれているからだ。
随分と時が経った、その思い出について詳しく書くことは今日はやめておこう。
書き出すとおそらく涙が止まらなくなり、このエッセイを1時間で仕上げて、午後の授業の予習にとりかかろうと思っている予定がすっかり狂ってしまう。
だが、思い返すと、心が痛くなるのは、何もこの時期ばかりに限らない。
春には春の、夏には夏の感慨があり、これまで過ごしたいくつもの春、いくつもの夏にも同じように思い出はある。
そして、普段は心の奥におとなしく納まっているそういう思い出たちは、季節の変化にかかわりなく、日常生活のふとした瞬間、それは鼻先を掠めるかすかな生活の匂いであったり、見上げた空の雲の動きであったり、昼下がりの住宅街の明るい光であったりするのだが、そういうありふれた瞬間に、急に現れ出でては、無防備な私をひどく慌てさせるのだ。
思い出たちの不意打ちをくらうと、私は時々その場で動けなくなるほどの息苦しさを感じる。
生々しく辛かった出来事も、時の流れのなかでまろやかに風化し、蘇る思い出はせつなくも甘美だ。
心に溢れてくる想いを大きく深呼吸してやりすごす術を、私はいつの間にか身につけた。
溢れる想いに心流されてしまうと、歯止めが効かなくなる自分を知っているからだ。
心の声に従って生きる。
私は理屈っぽい人間だと思うが、同時に滅法、情に動かされやすい人間だ。
言い換えれば、自分の情を理屈でいかにコントロールしようとしても、そしてコントロールできたように見えても、私を動かしている根幹は、結局のところ理屈ではなく、情である、とつくづく感じるのだ。
情の動きはときに理不尽で、わがままで、身勝手で、そして不道徳でさえある。
だから、自分の情を野放しにすれば、世に言う「犯罪者」になることは簡単だと思ったりする。
世の中に日々生起するさまざまな事件。
それらの事件と自分とはけっして無縁ではないと感じる。
もちろん人を殺したいと思うことと、実際に殺すこととの間には大きな隔たりがあるのだが、「私は虫も殺せぬ善人である」と言い切ることは、私にはできない。
いくら認めたくなくても、自分のなかに、同じような弱さと愚かさがあることを、私は認めざるをえない。
だから、先日裁判傍聴に出かけたとき、それは、年老いた窃盗犯人による累犯窃盗事件の刑事裁判だったのだが、「あなたはなぜ、懲りずにそうやって女性の下着を盗むのですか」と厳しく詰め寄る若い女性検察官の前で、「自分でも分からんのです・・・そのときになると、頭がぼうっとなってしまい、我慢できなくなります。ほんとに、ほんとに恥ずかしいです・・・」と、声震わせながら、繰り返す被告人の姿を見ていて、なんともやりきれない気持ちになった。
下着泥棒が、社会的に許されるはずもない。
ましてや、犯罪を摘発し、訴追する役目を担う検察官には職業的立場として、そういう窃盗を繰り返す累犯窃盗犯人に同情する余地などあろうはずもないだろう。
だが、家庭を持つこともなく、女性との交流もなく、病と、貧しさと、孤独のなかにあって、それでも異性に触れたいという欲望を抑えきれず、女性の下着を盗んでは、それを丁寧に縫い合わせ、部屋で一人身につけることで欲望を解消することができたと告白する被告人の老いた背中を見ていると、人間の持つ根源的欲求の強さと、それを封じこめることの困難さを思わずにはいられなかった。
そして、「ぼうっとするってどういうことですか?ごまかさないでください。いい加減なことを言わないように。あなたは、今までも何度も、同じような犯罪を繰り返してますね。どうして止められないのですか?恥ずかしくないのですか?反省していないからやめられないのではないですか?」と、答えに詰まる被告人に対して何度も問いただす若い女性検察官の左手薬指には、銀の指輪が光っていて、私は、なんとも複雑な気持ちになった。
圧倒的に優位に立つ者が、圧倒的に弱い者に対して、答えようのない問いでもって、攻め立てる光景は、人として見るに忍びない心持がした。
その瞬間、暗い情動に突き動かされて、犯罪と呼ばれる行為に走ってしまう被告人の人間としての弱さ。
それが社会的に許される行為でないことは彼自身充分に承知していながら、それでもそういう行為をしてしまう弱さ。
その弱さに同情すべき立場に、彼女がないことは分かっている。
罪を罪として処断しなければ社会の秩序と安全は維持できないことも分かっている。
だが、いかに刑罰を科そうと、おそらく人は根源的欲望に突き動かされてしまうとき、理性を忘れ、反社会的行動に走る生き物であるのだ。
だから、いかに責め立てようと、反省を迫ろうと、その場になって、強い情動に駆られてしまえば、彼はまた同じように下着を盗んでしまうだろう。
そして、前科が増えれば増えるほど、一般社会で普通に働いて暮らすことは難しくなるだろうから、更生はますます難しくなるだろう。
そんなことを感じながら眺める法廷の光景は、だからどこか虚しく、人が人を裁くことの意味を考えさせられるのだった。
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フォト・ギャラリー
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2006-10-22T21:58:00+09:00
2006-10-23T08:48:23+09:00
2006-10-22T21:58:04+09:00
law_school2006
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セコール127mm f3.8
煌めく光を見詰めていると
感傷は夜の魔法に溶けていく
そして わたしは 独り
夜のなかに たたずむ
写真をクリックすると画像が大きくなります。モノクロの夜景をどうぞお楽しみください。]]>
エッセイ『心もよう』
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2006-10-10T02:13:00+09:00
2006-10-10T02:26:08+09:00
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law_school2006
未分類
井上陽水の歌の話ではない。
だが、まんざら関係がなくもない。
なぜなら、実は「髪」にまつわるエッセイを書きたいとずっと思っていて、私の連想ゲームでは『髪→美容院→ニューヨーク恋物語→リバーサイドホテル(陽水の名曲!)』と繋がっていて、でも、なかなか書く時間が見つからないうちに、別の書きたいことが出てきてしまい、髪とリバーサイドホテルにまつわるエッセイは、とりあえず後回しにすることにして、別のことを書くために、同じ陽水の名曲「心もよう」のタイトルを拝借したからだ。
(一文が長い!と論文試験の答案の添削であれば、言われるところだが、これはエッセイなので気にしない)
このところ、さまざまに多忙であり、書く時間がとれなかった。後期の授業が始まり、課題に追われていたし、忙しいことは常に重なるというマーフィーの法則(があったかどうか知らないが)の通り、身体が二つ欲しいような数週間だった。
そんななか、明日までに片付けねばならぬ課題の三分の一ほどに目処がついたので(あと三分の二はどうするつもりよっ!もう真夜中よ!)久しぶりに、今夜はエッセイなど書いてみようと思います。
先月の下旬、今年LSを卒業した第一期生が受験した新司法試験の結果が出て、私の通うLSからも二桁の合格者を輩出したことは、すでに書いた。
LSは、3階建ての法科大学院棟に、教室、ゼミ室、自習室、教員研究室、図書室、模擬法廷、院生ラウンジ、事務室などがまとまっていて、24時間常に使用できる(24時間勉強しろ、ということでしょか。すごいですね)状態に保たれているのだが、先日、その院生ラウンジを開放して、合格者祝賀会(要するに飲み食いする会ですが)が開かれた。
いかに少人数のLSとはいえ、在校生と卒業生、結構な数の教員。それに普段は顔を見たこともない、なにやら偉そうな大学の関係者などなど。そう広くもない院生ラウンジはたちまち人で一杯になった。
「乾杯の音頭の前の挨拶ほど野暮なものはありませんので直ぐに乾杯いたします」と言いつつ、「このたびは・・・」と始まったこれはやはり「乾杯の音頭の前の挨拶」というものなのではなかろうか、という名誉理事の乾杯の音頭で、まったく冷えていないビールで乾杯したあと、それなりに分量は豊富な食べ物(LS開校時パーティーのときの豪華さを知っている先輩諸氏のお話によると、料理の質は較べるべくもないらしいが)を突きつつ、和やかに賑やかに祝賀会は始まったのでありました。
人波を縫って、めぼしをつけた合格者の人に擦り寄って話を聞いたり、民事系の実務家先生のトロンボーン演奏に耳を塞いだり、じゃなくて、傾けたり、自習室仲間と、中華ちまきをパクつきながら、とりとめもない話に花を咲かせるうちに、最初は満員状態だった院生ラウンジも、次第に人が減ってゆき、この喰い散らかしは一体誰が片付けるのか?と疑問を感じた山ほどの食べ残しも、いつしか数枚の皿の上に収斂し、「冷蔵庫に入れておけば、明日、誰かが来て食べます」というところに落ち着いたのだった。
自転車で帰宅できる私は、終電を気にしなくてよかったので、深夜までダラダラと居残っていたのだが、おしゃべりに打ち興じながら、私は、自分がそれなりに大人になったことを感じ、ちょっとした感慨を覚えた。
というのも、かつて、自分も持て余していた覚えがある若さの尖りや焦りを、若い学生たちの姿に感じ、ひどく懐かしいものを見る眼で、それを見ている自分に気付いたからだ。
そして、それは懐かしさと同時に、かすかな羨望も感じる感慨なのであった。
私の通うLSは社会人が多いとはいえ、もちろん大学を出たばかりの学生もたくさんいる。学卒ホヤホヤの彼らは23,4歳だから、私の子ども世代といっていい。
だが、LSの教室で勉強しているときは、不思議なことに私は彼らの(そして自分の)年齢を意識することが、ほとんどない。
学部から通算すればすでに6,7年がところは法律学の勉強をしている彼らに対して、私はいまだ3年ほどの勉強しかしていないから、どう考えても、私の方が後輩だ。
世代的には、私はむしろ教員の側に近いわけだが、私は、あくまでもLSの学生であり、ともに学ぶ仲間は、はるか年下であっても対等な同級生であり、先輩たる上級生であるのだ。
だから、ときどき、年配の社会人学生が、足を組み、腕を組み、ふんぞりかえって、先生の質問に答えている姿を見ると、「何か勘違いしてませんか」と内心でつぶやいてしまったりする。
実会社ではそこそこの地位にあって、いわば世慣れているのだろうけれど、教室のなかではあくまでも一学生。
もっと謙虚な姿勢で学ぶことが大事なのじゃないかなあ、な~んてね。
昔外国で暮らしていた頃、日系のスーパーのレジで、言葉の通じない現地のレジ係の若い女の子相手に、ひどく尊大な態度で接していた日本の会社員を見かけたけれど、そのときと同じ失望感を、わたしは密かに抱いたりする。
若さを失う分だけ、人間としての品格を手にいれなければ、年を重ねることは、ただ、醜さだけを身にまとうことになりかねない。
「あなたに足りないものはセンスです」とか言うキャッチコピーに踊らされ、イタリア人モデルが表紙になってる雑誌を買ってる段階で、すでにまったくセンスがない、と私は思ったりするのだが、センスと知性と品格のある成熟した大人になることを、もっと日本の男は考えて暮らしたほうがいい。
もちろん、女も、だけど。
そんななか、ときどき授業で一緒になるK君が、普段なかなか話す機会がないから、と話しかけてきた。
自分は未修者で劣等感があるから、たくさん授業をとって、一生懸命頑張るのだ、と語る彼の話を聞きながら、私はちょっとばかり感動してしまった。
教室での「同級生」という立場を離れてみると、私からみる彼は眩しいほどに若い。
だが、大学4年になったとき、自分が一体何をすればいいのか分からず、世の中にどんな仕事があるのかも知らず、世の中のことが何一つ分かっていないことに愕然とし、だから考える時間が欲しくて一年留年して、そしてLSに進学したという彼の話を聞きながら、私は、同じように迷いの中にいた頃の自分を鮮やかに思い出していた。
若さを生きるということは、何にでもなれる可能性を追いながら、いまだ何にもなっていない不安を抱いて生きることだ。
その時期をすぎてしまった者から見ると、それはひどく贅沢な悩みに見えたりもする。
だが、私はあの頃の不安といらだちを忘れてはいない。
希望と裏腹の、漠然とした人生へのおそれを抱いて生きた日々を忘れてはいない。
自分の人生、いまだ何一つ確かなものを手にしていなかったあの頃と比べれば、今の私は随分とたくさんの人生の果実を手にしている。
そして、その果実は、間違いなく今の私に心の平穏をもたらしてくれている。
だから、彼らの若さに羨望を感じながらも、もう一度あの時代に戻りたいかと尋ねられれば、私は静かに首を横に振るだろう。
あの頃、私はよく空を見上げては、流れる雲に不安な自分の心象風景を重ねた。
そういう風にして生きた頃の自分を、そして、その頃の自分と同じ若さを生きる者たちを、優しい眼で見ることができるようになったことが嬉しくて、私はぽかぽかする心を抱いて家路についた。
そして、こんな風に人の心を暖かくさせる、若い人のひたむきさは、やはり素晴らしいなあ、としみじみと思うのだった。
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近況報告 穴埋め問題風
http://lsdiary.exblog.jp/3908847/
2006-09-29T23:52:00+09:00
2006-09-30T00:04:32+09:00
2006-09-29T23:52:49+09:00
law_school2006
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【問題】下記の●には、ひらがな、カタカナ、アルファベット、漢字がそれぞれ一字づつはいります。あてはまる文字を入れ、何が書いてあるのか、判読してください。全部正しく文字を埋めると、私の近況が書かれているので、みなさん、頑張ってくださいね。私は予習を頑張ります。
●●の●●が始まり、●●に●●●います。
また、●●が●●●●●●ので、●●に●●●います。
●●●●では、●●と●●●●●●●を●●●●●ます。
●●●の●の●が●●●●ところで、●●●したり、●●を●ながら、●●●●の●で、●と●を●●●●●たりしています。
●●●●●●で、●●●しようとしましたが、●●●●●が●●●●たので、●●●●と●●●●●ので、●●に●●●●●●●だけでやめました。
●●●は、●●●●●まで、●●●●●●●●と思います。
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